安心問答−浄土真宗の信心について−

浄土真宗の信心についての問答

以名摂物録(松澤祐然述)「49 聖人求道の径路」

※このエントリーは、「以名摂物録(松澤祐然述)」(著作権切れ)からのテキスト起こしです。

※原文には、今日の目から見て教義的におかしく思われる部分、差別語とみなすべき語彙や表現もありますが、著者が故人であること、当時の説教本であることも考慮してそのまま掲載しています。

前回の続きです。

49 聖人求道の径路

前席に於て、法の絶対なる御手柄を、鼠小僧に譬え、機の興盛なる有様は、毎日仏を追い出しにかかっておるなどと。思いきった御話しを致しましたので。

皆様は余りのことに驚いて、突飛の話しにも程がある、と思し召す御方もあり。又は甚だ不謹慎の説教である、大いに懲戒を加うるがよい、と批難なさる御方もあろうが。併し信仰の迸る所は仕方がない、多少の批難は受けねばならん。


私の批難ぐらいはどうでもよいが、近頃は困ったもので。大事な大事な御法主台下*1のことまで批難して、大谷派の安心が紊乱しているるの。御法主の心霊治療遊ばしたのが、雑修になるのといい立てておる。


それも他宗他教の人々がいうのであれば仕方はないが。多くは派内の末弟たる而も肩書や責任のある人の口から出ておると来ては、実に涙が出るような次第である。

全体法主台下は、借金の質草や、勧財の看板ではない、実に法の主、即ち安心の大権者であります。然るに末弟たるものの口より、一派の安心が紊乱していると申すのは。確かに御法主の大権の、不行届きを表明することになるまいか。殊に人間と人間が、知識と実験とで考え出した心霊治療が、なんで雑行雑修となりますか。

もしし心霊治療が雑行雑修ならば、電気治療も静座療法も、皆雑行雑修とせねばなりません。

今より七十余年前のこと、初めて種痘の流行りかけたころ、越中出町の金井老人が心配して、種痘が雑行雑修になるまいかと、手次寺にまで尋ねて行った話しがある如く。ここ五六年も経てば、誰も怪しむことのない心霊治療も、初まりかけた今日のこと故に、雑行雑修になるまいかと、無智の輩の怪しむも無理はないことなれども。

かりそめにも法主台下の遊ばすことを、末弟の分際として云々するようなことでは。真宗の最も重んずる、師弟の関係は地に落ちて仕まっておるかと思われます。祖師聖人は『たとえ法然上人にすかされ参らせて地獄におちたりとも、更に後悔すべからず候ふ』。と仰せられ、近江の琵琶湖を独りでかいほせといわれても、師匠の仰せには背きかねぬというが、真宗信仰の立脚地であるゆえに。善知識の遊ばすことは弟子たるものの絶対に服従するが、就人立信の正意である、もし御法主の遊ばすことが、全く間違いであると思うたら、泣いて膝下に跪づき、御諌め申すことはよけれども、公然批難などの出来るものではない。

然るに今日のような有様では、支那や露西亜の革命の如く。やがて御法主を廃して仕まい、宗意安心は多数決で定めることになりそうな。所謂危険思想が一派内にみちみちておらぬかと案ぜられ。それが遂には、国民道徳の基礎をつくるるようにはなるまいか、と杞憂しておる次第であります。

かかる話しは御集まりの皆様には更に用事のない問題のようではあるが。真俗二諦の御流れ汲みの御互いは、国民として、天皇陛下の御尊厳を飽くまで忘却してはならぬと同時に。宗内にあっては、善知識とたのむ御方の威信は、誓って損わぬように覚悟して頂きたい。勝手次第に知識のよしあしをいい振らして、何共思わぬような心懸けでは。僧俗共に真実の信者とは決して申されません。


そこで祖師聖人の御信仰に於ては、善知識の御言葉に絶対に服従なされたというより外は更にないので。その御信仰たる絶対服従に至らせられた、経路を味わって見ると、いかにも単純なので。親を尋ねて親に御遇いなられてという、一言に結帰するのじゃ。


その親を尋ねなさるる動機となったのは、いうまでもなく御幼少の時、御両親に御別れ遊ばされたのが原因であります
『父なくんば何をか恃まん、母なくんば何をか恃まん』
幾歳になっても親に別れて淋しいのに。僅か八歳の松若君と申し上げた祖師聖人、夢見たように御両親に御別れなされた心の内。淋しいやら哀しいやら、寝ても父様なつかしく、覚めても母上逢いたやと、忘れたまふ隙はなかった。

その御心が九歳の春に一転して、大きく御成遊ばしたのじゃ。
その訳は、今迄松若君の御懐しく思いづめにして御座られた父母は、身体の親、即ち五十年の親であった。そこで若君つくづく思し召すようは、仮令父上がましませばとて、母上が御座ればとて、千年万年一所になっておらるる訳はない。逢うた初めがあったもの、別れにやならぬは当りまえ。

夢見たような五十年、僅か此の世の中でさえ、親がなければ淋してならん。出掛る未来は無量永劫、後生に親がなかったら、何時まで泣いても果てしがつかぬ。所詮身体の親には逢うことならぬ、もう此上は心の親、未来の親に御逢いして、無量永劫助かりたやと思し召し。明日とは待てぬ今宵の中、夜半の嵐の吹かぬものかはと、大急ぎに出家得度遊ばされた。


それより比叡山二十年の御修業は、名利勝他のあろうこそ、一句の法を学びなさるるにも、一事の行を御修し遊ばすにも。未来の助かる道はないか、心の親は御座らぬかと、一心不乱に尋ね尽くして御覧なられたが。智者や聖者の助かる道は数あれど、煩悩妄念の波風止まぬこの善信の、心の親となりて下さるる御方に逢われぬので。

所詮我身の力では未来の親様に逢うことならぬ、もうこの上は神や仏に御たのみして、逢わせて頂く外はないと思し召し。二十九歳の春の頃、比叡山の山王七社を初めとし、彼方へ心願此方へ祈願。その信願祈願の最後の御苦労が、六角堂へ百夜の御通いでありました。


皆様は百夜の御通いということを、いつも聞き慣れて御座るゆえ、我々が一週間も御初夜参りを続けた位に、思うていて下されては困りますよ。

口でこそ百夜とはいい、誰が数えても三月と十日です。
それ程永い月日の中には、雨やら風やら、目口もあかぬ夜も随分あったに違いない。今夜は凪が悪いから、一晩休もうと懈怠なされたこともなく。それも五丁や十丁の道でない、山坂かけて三里十八丁は昔も今も同じこと。

往復七里の御通いに、連れ添いはさらになく、ただの一人で丑の刻、六角堂の真中へ、ションボリと御据りなされた善信上人の心の内。
南無大慈大悲の観世音、何卒善信の未来助かる法に逢わせて下されませ。南無大慈大悲の如意輪観音様、どうぞ善信の心の親に逢わせて下されと、一心こめての御祈祷が、即ち百日の懇念であったのじゃ。


皆様も御流汲の一分で御座るもの、祖師聖人の思し召が、この通りと知れたなら。たとえ一座の御参りにも、法門義門は脇へぬけ、安堵したいの落付きたいのと、しゃれた話しは後にして。差し当たり親に逢いたい、御助けに逢いたいという心懸けで御参り下されてはいかがですか。その御助けに逢うた一念が、南無とたのまれた安堵の出来る時でしょう。


そこで今日が百日の満願という夜明け方。
『親のあたり告を五更の孤枕に得て』。
と仰せられて、夢にも非ず現にも非ず、ありありと善信上人の御前に、観音様御立掛り遊ばされ、御告げなさるる仰せを聞けば。
『善信房よ善信房よ、ようこそ参られた、ようこそ通はれた。真実御身の心の親に逢いたくば、比叡山を木の葉反しに尋ねても逢うことならぬ。今は吉水の禅室に、法然上人という知識が御座る、その膝下へ詣って聞かれよ行って尋ねられよ、御身の親は待て御座るぞ、待て御座るぞ』
と明らかに御告げがあったので。祖師聖人は数行の感涙にむせばせられ、早速比叡山へは離山状を差出し、伝手を求めて法然上人の禅室に至り、出離の要道を御尋ねなされた。


その時法然上人は、善信上人にむかわせられ。智者や賢者の助かる法は山々あれど、愚痴の法然や、無善の御身、極悪深重の衆生は、他の方便更になし、偏えに弥陀を称してぞ、浄土に生るとのべたまう。往生之業念仏為本は、源信和尚の御勧説。この法然も一切経を五遍まで繰返しては見たけれど、凡それの助かる道がしれなんだ。哀しみ哀しみ黒谷の経蔵にいり、歎き歎き経巻を開き、何ぞ助かる法はないかと尋ねるうちに、善導大師の観経の疏に。
『一心専念弥陀名号、行住座臥不問時節久近、念々不捨者、是名清浄之業、順彼仏願故』。
とある所を読んだ時。実に此御言が魂にしみ、肝に銘じ、アア名号六字で助けるとは弥陀の本願の御約束。六字で助かるものならば、これが親様仏様。三経の所説釈迦の金言、諸仏の請け合い明かに信ぜられて見れば。

六字の外に今は余行余善のありたけが、更に用事のない事になりたぞと。宗の淵源を尽し、教の理致を極めて御述下された。法然上人のたった一座の御化導で。
『たちどころに他力摂生の旨趣を受得し、飽まで凡それ直入の真心を決定しましましけり』。
と善信上人バッタと打ち伏し、アア迷うたり迷うたり我も比叡山に居たときに、この六字を知らんでなかった、聞かんでなかった。

聞いてい乍ら知ってい乍ら、万行随一の六字と思い、善本徳本の六字と思い、兎角他人あしらいして来たは勿体なや。
この御六字が抱いてかかえて下さるる、他力摂生の御手柄ある親様でありましたかと。二十年来尋ねつくして御座られた心の親に目出度御遇いなされたが、建仁元年吉水入室のときでありました。


これを祖師聖人の御自督より頂いて見ると。
『親鸞におきては念仏して弥陀に助けられ参らすべしと、善き人の仰せを蒙りて信ずる外に別の仔細なきなり』。
と仰せられた。是れが即ち御師匠の絶対なる御言に服従遊ばし、御助けに御遇いなされ、雑行を捨てて正行に帰し給ひたところである。


それより以後の祖師聖人、満九十年までの御苦労は。我身が遇うて安堵した、無量永劫の親様が、易行至極の南無阿弥陀仏にましませば。この有り難い御六字を、日本中の人々に、縁を求めて知らせてやりたい、遇わせてやりたいの思し召より外はない。


依って越後へ御流罪にならせられたその時に、祖師聖人の口づさみ給える御歌に。
『弥陀の名をひろめんために荒磯の、越路を渡る波のうねうね』。
と仰せられ又七不思議の随一の、鳥屋野の逆竹の御草庵の石碑に刻まれてある御歌に。
『此里に親の死したる子はなきか、御法の風に靡く人なし』。
と仰せられて。此鳥屋野の里に親に別れた子はないか、身体の親に別れてさえ懐かしい思いがたえまいに。まして心の親様が御六字様であるぞよと、みちびく私の草庵へ、少しは詣ってよかろうに。御法の風に靡かぬは、親を恋しう思わぬか、と御歎きなされた御歌である。


これから伺って見れば、祖師聖人の御一生、御幼年の時より御臨終まで、彼尊の御胸に一縷貫徹と、動かぬ信仰の径路は。

親を尋ねて親に遇い、その遇うた親様を、人にも遇わせてやりたいとの、思し召しより外にないことは明瞭である。さて皆様よお聞き取りが出来ましたか、かかる祖師聖人の御手導きがあればこそ、末世に生れた我々が、畳の上にありながら。なんの苦もなく六字の親に合せて頂き、この世をかけて未来まで、安心安堵の身となったも。偏に祖師善知識の御陰と思い、海山の御恩一つは忘れぬよう、後念の勤めは勇み勇んで、目出度く日送り致さねばならぬ次第である。

元本をご覧になりたい方は下記リンク先を参照下さい。

以名摂物録 - 国立国会図書館デジタルコレクション

以名摂物録

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