安心問答−浄土真宗の信心について−

浄土真宗の信心についての問答

以名摂物録(松澤祐然述)「50 六字に満足せる実話」

※このエントリーは、「以名摂物録(松澤祐然述)」(著作権切れ)からのテキスト起こしです。

※原文には、今日の目から見て差別語とみなすべき語彙や表現もありますが、著者が故人であること、当時の説教本であることも考慮してそのまま掲載しています。

前回の続きです。

50 六字に満足せる実話

前席に於て祖師聖人御信仰の経路に付いて、委しく御話しを致しましたが、御呑み込みくださいましたでしょう。


今日のお互いが、信心の安心のたのむの縋るのということを、何んぞ難しい仕事のように思うていては、丸々方角の違うた話しになるので。
祖師聖人も、信心や安心に難儀して御座られた間は、自分の力で後生の始末をつけようとして、叡山二十年の御修行中、即ち自力時代のことであったが。一度吉水の禅室に入らせられ、他力摂生の親に御遇いなられ、名号不思議の御手が心に届いて見たれば。

こちらで世話やく信心安心の用事はつきて、向こうより届いて下された。名号六字の御手柄が、信心となり安心となり、たのむも縋るも任せるも、面倒なしに調うたは、心の親に御遇いなられた時であったから、御真影の御讚にも。
『観仏本願力遇無空過者』。 
と浄土論の四句が銘記せられてある。


この四句は祖師聖人の信仰の肝腑とも申すべきものにして、殊に四句二十字の中に於て、遇の一字が真の眼目である。
遇とはあったこと、何に御遇いなされたかといえば、御和讚にこの御言葉を和げさせられ。
『本願力にあひぬれば、むなしくすぐる人ぞなき』。
と仰せられた。


遇いも逢うも火事や地震に逢うたじゃない、仇や敵に御逢いなられたのではない。逃げても逃がさぬ本願力の、御助けに御逢いなされた。

その本願力の御助けが、南無阿弥陀仏であって見りゃ。驚くまいぞといわれても、驚く思いの起るのは、火事や地震に逢うた証拠。
今は落さぬ本願力に御逢いなされた証拠には、たのむまいぞといわれても。たのまずにをられず、任せずにをられず、後生一つに不足のない身に御成り遊ばしたのが。雑行を捨てて正行に帰したまいたる、聖人の御信仰であったのじゃ。


それに付いてこの聖人の御信仰と、全くその経路を同じくしておるかと思わるる、或少女の御話しを御紹介申して見ませうが。御判断は素より皆様の御自由として、暫く御参考までに聞いて下さい。


それは越後国で新潟の付近に大野という田舎町があります、この町には寺院がなくて、説教場が建てられてあります。
この説教場に毎年十二月二十二日より、報恩講が勤まるので。私は十七年間も続いて、その報恩講の説教にゆきました。
この説教場の設立当時より、全分の世話をし、代々同行顔をしておる、高橋四郎平という呉服屋がある。当代の主人は中年の人ではあるが、仏法の事も町内のことも、裏表なく世話をする御方で。世間の人にも多く用いられ、近年は逓信省から、大野郵便局長にまで選任せられ、家政も仲々の繁盛でありました。

然るに、満つれば缺くるが世のならいというものか、去る大正二年の秋、大事の御内儀が子供を七人残して死んでしまわれたので、主人も非常に落胆してをられたが。
その翌年には四郎平その人まで死んでしまった。足掛け二年とはいうものの、事実一年も経つか経たないうちに、七人の子供が夢見たように両親を失ってしまった。

サァこの場合になってくると、寧ろ二歳や三歳の幼子は、乳母や何ぞの手当てをすれば、忽ち親を忘るる道もある。
然るにその七人の中で長女が当時十八歳で花子といひ、次の娘が十六歳で春子という。ここら当りの年頃になったものが、急に両親に別れては。本当に心の遣り場がない、哀しいやら淋しいやら切ないやら、寝ても起きても胸に煩悶と憂愁の絶えるひまがない。

そこでその年の暮に例年の説教にゆきましたところ、今の娘姉妹は平素に変りて、報恩講中熱心に御参りをつづけました。


皆様よ是が法席へ出る、実際の正客というものであります。
それは何故なれば、皆様も御参りなさるるは同様でも、その聴聞の目的が後生一つは御助け候へと。死んでから向こうのことを助けて貰いたいので。今日や明日の事は、敢て助けて貰う必要はない。三度の食事は人並みにしておる、暑さ寒さの凌ぎも相応に出来てある。病気災難は願うても、叶わぬのみか、却りて雑行雑修と叱られて見れば、願うとうても是は遠慮をせにゃならぬ、所詮この世の願いは更にない。

聞けば後生に地獄と極楽があるそうな、地獄と聞いても縮入る程でもなし。極楽じゃとて飛立つ思いもなけれども、死んで地獄へ落ちるより、極楽へでも参りたやという程の心がけ。
兎角御助けを死んだ向こうのことにして、今早急に求むる用事のない人を、世間に所謂ひやかし客とはこのことである。

今浄土真宗は、死んでから助けて貰う宗旨ではない、御助けはこの座である。是が平生業成で、今御助けを貰うつもりになりて聞けよの思召しより、臨終をとりつめて聞けと仰せらるるのじゃ。
世間の人の中には、この臨終をとりつめるということを、今ここで死ぬ気になることじゃ、と誤解しておるものがある。

明日の仕事まで遣繰りして来た御互いが、今ここで死ぬ気なんぞになりようや。
なって見たところで、判官様の切腹の芝居をするようなもので、仮想観というて虚なのじゃ。

本当に死ぬ気になるには、強盗でも来て頚でもしめられた時でなければ成らぬ、事実その様な場合には、後生も菩提もあるものか。そこで臨終をとりつめるということは、今この座で御助けに逢うことをいうので。
『平生のとき善知識のことばのしたに、帰命の一念を発得せば、その時を以て娑婆の終り臨終と思うべし』。
とあれば。

今この御座で御助けに逢うてしまえば、そこが娑婆のおわり迷いの臨終がとりつめられたところである。
かの韋提希夫人の如きも、可愛い我が子に幽閉せられ、愁憂憔悴のあまり。死んで向こうのことなどは思うておる隙もなく、現在に救済を求められたのが、その侭未来の御助けとなったのじゃ。


今の少女二人も是である。死んで未来の地獄や極楽は第二として、先づ差し当たり両親に別れて、遣り場のない苦しい胸の中へ。御助けが頂ききたい、救済がしてほしいと参る心こそ、実に真宗の正客といはねばならぬ。
然るに報恩講中は参りたいものの、呉服屋のかなしさに、年頃の少女が二人揃うて、忙しい店を明けることが出来ぬので。姉が参れば妹は留守居、妹が参れば姉は店番という次第で。互々に御参りして、熱心こめて聴聞しておりました。


さて七昼夜の報恩講も早や御浚となり、説教も今夜限りという、二十九日の御逮夜のすみました所へ。かの十六になる春子が、親類の老母に連れられて、私の座敷へやって来た。

『この娘が貴方に御尋ね申したいことがあるから、御座敷へ連れて行ってくれと申しますので、御邪魔致しましたが、どうぞこの娘に聞かせてやってくだされませ』。
と老母がいわるるので、私は春子に向かい
『お前はこの頃中、随分克く参られたが、何んぞ不審のことでも出来たのか、遠慮は更にいらぬから、尋ねたいことは何んでも、御話しなさい」。
と申したれば、今の春子はやさしい手をつき。
『私は何んの不審ということはなけれども、段々聞かせて頂いて見れば、いよいよこの南無阿弥陀仏の御六字が、私を助けて下さるる親様でありますか……」。


フム、是は大事の急所を聞きに来たぞやと思われたから、私は声を励まし。
『お春さんそうじゃぞや、そうじゃぞや、私がいつもいう通り、大悲の親様は西方浄土に在せども。仏体の侭ではお前に、逢うてやることが出来ぬから、三世諸仏に並びない、不思議の誓願を顕わして、選択易行の至極たる。僅か六字に仏体の功徳をこめさせられ。その御六字をお前の心に投げ込んで、その御六字でお前の心を摂取して、抱いて離さず浄土まで、連れ寄せたいの本願が出来あがったのが南無阿弥陀仏である故に。
是が親様の御助けと、お前の心に信ぜられたる一念に。届いたのじゃ、抱かれたのじゃ、助かったのじゃ、たのまれたのじゃ。お前の心は変わっても、六字の御手は動きたまわず、お前は仮令忘れても、六字はいつも護りづめ。
寝るも起きるも六字の親の内住居、命終れば浄土まで、送り届けて下さるる御相が、南無阿弥陀仏で御座るゆえ、是がお前の心の親に相違ない。サァこの外にまだも尋ねることはないかや』。
といとこまやかに申したところが、
今の春子。
『私は是さえ聞かせて頂けば、モウ何んにもいりません』。
と断然たる答えをしたので、私はその時心の内で。占めた!占めた!。と、実に両手をうちました。


皆様よ、ここでよくよく味わってみて下さい。
今の春子の一言が、言葉としてはさらに調うてはなけれども。その信仰の意味に於ては、確かに美しい御改悔文であります。
『モウ何んにもいりません』。
とは能くいうた、是が雑修自力の捨たったのじゃ。明るてもよし、暗くてもよし、嬉しかろうとかるまいと、この機眺める用事のなくなったかたちが、この一言に溢れてある。
『是さへ聞かせて頂けば』。
と頂いた六字に満足して、一心一向余念なく、後生一つは御助け候へとたのみ申した信相も、往生一定御助け治定の決定も不言不語のあいだに活躍してある、心中を見てとったこの私
『お春さんそれで芽出度い芽出度い、これからあとは親様と二人暮しの御身じゃで随分我身の上を大切にして、念仏諸共日送りをなされ』。
と申したれば今の少女は喜び喜び老母と共に礼を申して立ち去りました。


十二月の末のこととて忽ちに日は暮れた。モウ今夜限りの説教というので、初夜の参詣も追々集りて来る。私の座敷へも五六人の同行が来て御話しをしておる。その内に勤行も始まりかけた、そのところへ突然と私の座敷へ入って見えたのが、先刻の老母と春子である。

姉の花子も夜分のことじゃで店をしまって一緒に来た。座敷へ座り挨拶をするやせんのに、十八になる姉の花子が、オイオイ、オイオイと泣き出した。是は何事であるかと一同のものは驚いた。
今のお花は泣き泣きものをいうておる。
『私も今日の御逮夜に参りとうて参りとうてならんかったが、店が忙しいのででることが出来なんだ。妹は今日の御逮夜に御参りして、いよいよ六字の親様に逢わして貰うたと、喜び喜び帰りて来たに。
私は姉の身であり乍ら、未だ六字の御手柄を頂きかねておるは残念でならん。……去年は内の御母様に死なれてしまい。胸の中は張裂ける程であったが、未だ御父様が御座るでよいわよいわと、御父様一人を力にしていたに。
今年は又御父様に死なれてしまい是からあとは何を便りに暮してゆけばよいのやら……』。
と恥かしげもなく、オイオイと泣いておる花子の痛切なる心情には一座のものも、そぞろ心を動かされ、共々に貰い泣きをしてような始末で有りました。


ソコデ勤行もすんで説教の案内が来た。高座へ登って見ると参詣は満堂して、立錐の地もないという程であったが。多数の人は聞いてくれよとくれまいと。
両親に別れて哀しみと苦しみで、身の遣り場のない胸の中へ、如来の御助けを渇仰して、未だ頂ききかねておる花子の心へ。今夜の中に御慈悲の御手を届けずば、私の役目は立たぬぞという覚悟を以て。それこそは必至となって御話しにかかりました。

二席の説教は通例であるがその晩に限りては余り心元ないので、三席の御話しを重ねました。人々は下向をする私は座敷で休息をしている処へ。
今の花子春子の両人が縁側に座ったまんま、障子の敷居に両手四本をついて。
『今夜の御説教は誠に御難有うありました』、
と御礼を陳べたので、私は花子に向かい
『今晩は花子さん一人に聞いて貰ひとうて、命がけに喋ったのじゃが。どうじゃ花子さん、六字の御手柄に満腹が出来ましたか』。
と尋ねたれば、花子は感涙にむせび。
『今夜という今夜は確かに六字の親様に逢わせて頂き、この上もない嬉しいことであります』。
と答えたゆえ私は。
『それで芽出度い芽出度い、それで私も御話しをした所詮がありました、サアサア親様諸共姉妹諸共おかえりなされ』。
と別れたのが二十九日の初夜過のことであった。


明けて十二月三十日の朝は、一番汽船で帰るので、六字出帆というのじゃから、未明に起きて荷物を調え、同行に送られて汽船場まで行って見ると。
夜も未だ明けてしまわず、雪もちらちら降る中に、花子春子の両人がしょんぼりと立っている。
私は両人に向かい挨拶して。
『何処へお出でるのか』。
と尋ぬれば。
『今朝は貴方が御帰りになるゆえに、ここまで御見送りに参りました』。
という。
『是は御親切忝けないが、今朝はわけて寒気がつよい、風邪でも引くと悪いから、早く御帰りなされ』。
といえば両人は唯見送りに来たばかりではない、私に一言いいたいことがあったので、両人は口を揃へ。
『昨晩は貴方の御陰で、親様とゆるゆる寝ませて頂ききました』。
と申すので私は。
『それは何より嬉しいことであったのう……恋しくば南無阿弥陀仏を称ふべし、われも六字のうちにこそすめ。南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏、サラバ是にて御別れをしましょうぞ』。
と私は舟に乗り込み、汽笛一声ゆかしき煙りを残して帰宅致しました。


翌三十一日で大正三年はくれてしまい、その翌日が大正四年の元旦となりました。
例により多数の年賀状が私の手元へ到着した。逐一それを調べて見ると、花子春子よりとかかれた葉書が一枚あるゆえに、それを読んで見ると。
年始の文句はただ一言にして、その次に両人の喜びが書いてある。文章は簡単であるが、その味わいに於ては、いうにいえない信仰の花が咲いてある。何卒皆様その葉書の文句に、暫く耳を貸して下さい。

この間中は長々の御化導、誠に誠に難有く御礼申上げます。
今日という今日は六字の親様に逢はしてもらひ、今夜という今夜は床の中へとぼとぼといだかれ、親様はおれがいたぞおれがいたぞ、ゆっくり休めよゆっくり休めよと、口の中からひょろひょろとこぼれて下さるる、マア何という親切極まる親様でしょう。
アアこの親様がおいでればこそ、わたくし共姉妹は、いやでもおうでも浄土へ引ずられ、体の親に再会さして貰うたのしみは、この上もない大幸せ者であります。
あらなつかしや南無阿弥陀仏あらなつかしや南無阿弥陀仏。


さて皆様よこのゆかしい僅かな文句の中に、たのまれた相も、安堵の形も、自力の捨たりた様子も、往生一定の趣向も、実に溢れておるではありませんか。
殊に口の中からひょろひょろとこぼれて下さるるとは、何かにも計らいの尽きたことばである。
多くの御方は、自分で念仏を称えるように、思うて御座るのゆえに。余り沢山称えては自力になるまいかの、称えずにいては報謝に足るまいかのと、いろいろ計らいのやまぬのであります。


御念仏がこぼれて下さるるということにして見れば、自分の力は更にない。ただ自分としては、御念仏の邪魔をする計りが性得である。その邪魔をする御本尊は何でなるかといえば、煩悩であるゆえに、その煩悩の頭さへ叩けば、何時も御念仏がこぼれて下さるるから。何程御念仏を称えて見ても、自分の力は更にない、偏にこれ他力の大行と仰ぐより外はないことであります。


尚又今の葉書に、いやでもおうでも浄土へ引ずられというたは、誠に往生治定の信仰が、目に見えるようではありませんか。而も我身が願って行くのでもなし、我等が好んで参るのでもない。
花の台へ行き着く迄は、急いで参る心もなく、安養の浄土は更に恋しからず、参り嫌いのこの機のままで、参り損じの出来もせぬ、絶対他力の味はいが、少女の胸に溢れて見える。
是れが全く六字の御手柄に、満足出来た形であります。
尚この上に種々と御話しも致したいが、余り長くなりますゆえ、今の花子が大正四年の夏、私の旅中へ寄せられた、手紙を一通御紹介申上げ、それで御免を蒙ることとして。次席より少し御話しの方向を改めて、御相続申しあげたい考へであります。


その花子の手紙は。

近頃の暑さいかが遊ばされますか、御案じ申しています。
私方にては、余りの暑さにたえかねて、氷の柱でも立てたらと思いますが。思ったばかりで思うままにならぬがこの世。
後生はうれしいことを、思うままにさしていただき。体の親にまで再会さしていただく嬉しさ、手紙ではとてもかきつくすことは出来ません。
毎日毎日寝るも起るも親様まかせ。
勿体なや、うそもつく愚痴もいう、このきたない口より清らかな、南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏と御あらわれて下され。うそも愚痴も一度にからめとられて、あとはさっぱり御念仏ばかり、マア何という尊い御念仏様ではありませんか。
この御念仏がおいでればこそ、この世も後生も間違いなく、親様にすがりつつ、日暮らしさして貰うことの楽しさは。この上もない大幸せ者ですわね、松澤さん。
何というても我が身体より、一寸も離れて下さらん、親様ですもの………………南無阿弥陀仏  南無阿弥陀仏。

以名摂物録  前編 完

元本をご覧になりたい方は下記リンク先を参照下さい。

以名摂物録 - 国立国会図書館デジタルコレクション

以名摂物録

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