安心問答(浄土真宗の信心について)

浄土真宗の信心についての問答

以名摂物録(松澤祐然述)「31 乗込んだ機相」

※このエントリーは、「以名摂物録(松澤祐然述)」(著作権切れ)からのテキスト起こしです。

前回の続きです。

31 乗込んだ機相

 御話しを中途にして余り永く休憩を致しまして、皆様方に御退屈をさせ申し、誠に御気の毒のことを致しました。定めて御待ち遠いことで御座いましたでしょう。
 
 
 しかし御互は阿弥陀如来様には、何程御待たせ申したかと思うて見れば、実に勿体ないことであります。法然上人がある時阿弥陀経を御読みなされて、御経の中程に、雨さめざめと泣いて御座られたことがある。その時御弟子方が怪しみて、何故の御なげきでありますかと御尋ね申上たれば。
 法然上人の御答えには、外の訳ではなけれども、今此御経の中に。阿弥陀仏成仏より以来、今に十劫なりと説かれてある。世間の諺にもある如く、待たるる身になるとも、待つ身になるなというではないか。待つは憂いものつらいもの、我れ衆生を待つこと心にひまなしと。一劫ならず二劫ならず、十劫という長い間だ。大悲の親様につらい思いで待たせ申したは、此法然であるかと思えば。申訳ないやら勿体ないやら、計らずも涙が止めかねるよ、と仰せられたことがある。
 
 
 さあ皆様方御互の我々も、是迄御待たせ申したは仕方はないが、此度限り他力信心を決定して、誰は兎もあれ角もあれ。我身独りはここで迷いの打止として、浄土往生の素懐をとげ。大悲の親様の御胸を御休め申さねば、済まぬことぞと心得て。聴聞に心をいれて頂きたい。


 そこでこれまでの御話しに、当流の信心安心は、船に乗る時の切符のようなものでなく。乗彼願力之道と、大願業力の弘誓の船に、乗込んだ一念が、信心決定の相にして。しかも雑行を捨てて弥陀を頼むという信相は、乗りた御客の心から出す信相ではない。乗せた六字の船の力用(はたらき)が、此機の上に顕わるる形を、信相と申すのじゃということは、くわしく御話し致しましたが。船の力用から申せばこそ、十人は十人ながら、百人は百人ながら。往生一定御助け治定、平生業成の信相は、更に変りはないと申さるるものの。
 
 
 もし乗込んだ客の機相からいうて見れば、千差万別種々各々で、仲々同一にはゆけません。先ず大体に於て、船に強い人と弱い人では、その機相に於て格段の相違のあるもので。
 
 
 私の如きは随分海船には強い方で、毎年のように北海の荒海をこえて佐渡へ往復して見ましたが、凪がよければ甲板の上で、海上の風光を眺め、凪が悪くば室内で新聞でも見るか。時刻が来れば弁当でもつかう、夜分ならば給仕相手にビールでも飲んでやるというような次第で、可なり楽みに航海も出来ますが。さあ船に弱い御客になると、凪がよくとも飲食(のみくい)などの出来るものではない。頭(つむ)りはやめる胸はむかつく、少し波でも高くなって来ると。忽ち金盥を相手にして、さても苦しい声たてて、イロイロイロイロイロイロというておる、困りた御客も沢山ある、御婦人には別(わけ)て此種の苦しみが多いようだ。
 
 
 しかし乗りた御客の心地で走る船ではない、走るは船の力用じゃから。楽み楽み乗行(のりゆく)人も、苦しみ苦しみ寝ておる客も、近付く港は同じこと。
 サア此世の船には可なりに強い拙者も、未来の船には恥かしいほど弱いので。祖師聖人や蓮如様、法力坊や道西坊。さても弘誓の船には強い御方方。一度び乗彼願力と、弘誓の船に御乗込なされた一念より。波風あらき御難儀に、何程御逢いなされても、御恩御恩と喜びて、念仏諸共此世を送りなされてある。
 
 
 しかるに同じ弘誓の御助けの、船に乗せられてある此身の上は。三毒五欲の頭痛はする、煩悩妄念の胸はむかつく、八万四千の吐瀉し。よつてもつけぬ浅間敷い日暮しは、我身ながらも愛想のつきた此機である。此機で参る浄土なら、こんな機様をかかえたやつが、祖師や蓮師の御後を慕い。行かるる訳はなけれども、乗せた弘誓の願力で、送り届けて下さるる。他力づくめであればこそ、忘れ通しの此儘で、喜び通しの御方と。同じ浄土へ船入りが、出来るはどうした不思議ぞと、存ぜられたであろうなら。あとへ残るは慚愧慚愧、唯申訳のない此身ぞと。あやまり果てては御念仏、懈怠の心に鞭をあて。息の通いのある間は南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏。

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以名摂物録(松澤祐然述)「32 この世へ出るには」 - 安心問答(浄土真宗の信心について)

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以名摂物録 - 国立国会図書館デジタルコレクション

以名摂物録

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