安心問答−浄土真宗の信心について−

浄土真宗の信心についての問答

以名摂物録 後編(松澤祐然述)「6 異安心の三幅対」

※このエントリーは、「以名摂物録 後編(松澤祐然述)」(著作権切れ)からのテキスト起こしです。

※原文には、今日の目から見て差別語とみなすべき語彙や表現もありますが、著者が故人であること、当時の説教本であることも考慮してそのまま掲載しています。

6 異安心の三幅対

 前席においてくわしく御話し申した如く、大悲真実の親心を以て聴聞の基礎を固めてみると。疑蓋無雑の親様が、我等凡夫を助けるに、条件のあろう訳はない。たとえ他人と他人でも、真正に人を助けるという急場において。条件付きの御助けなど言うことが天地間にあるべきわけは決してない。水難、火難、地震や津波、何れの遭難者を助けるについても御覧なさい。こう思えば助ける、そう思ったら助けぬなどということは、絶対に無いことは明瞭である。そうしてみれば、今は親が子を助けるのじゃ、しかもその親は三世諸仏の王様とも崇めらるる、大慈大悲の阿弥陀さま。五十二段も違っておる、虫けらよりも比較にならぬ我々を。助けるという場合において、条件などのゆめゆめあるべきわけの無いことは、いよいよ明瞭の事実である。


 ここまで聴聞の地固めをしてみると、今度は御化導の文句が、甚だ解らんことになってくる。それほど真実の親様で、無条件の御助けなら。なぜに我を一心にたのめ、露塵ほども疑うこころもつまじきことなり、ひしと縋り参らする思いをなせ、などと仰せられたものか。この御言葉から考えて見ると、まさか無条件で助けてくださるる様子は更にない。言葉を取れば、心が解らず、心を取れば、言葉が通れぬ。意と言葉が丸で違ったように見える。是はどうしたわけであろうか、サァ是より進んでその辺の筋道を、聊か御話しいたしましょうが。五席や十席で済む話ではありませんから。皆様も辛抱して心静かに聞いてください。
 そもそも阿弥陀如来の本願の由来を、善知識の御言葉によって伺ってみると。大体において二つの御示しがある。その一つがたのむものを助けるという思し召しで、もう一つが称うるものを助けるという仰せであります。御文の中に。

このゆゑに阿弥陀如来の仰せられけるやうは、「末代の凡夫罪業のわれらたらんもの、罪はいかほどふかくとも、われを一心にたのまん衆生をば、かならずすくふべし

とあるは、たのむものを助けるという思し召し。末灯鈔の中に。

弥陀の本願と申すは、名号をとなへんものをば極楽へ迎へんと誓はせたまひたるを、ふかく信じてとなふるがめでたきことにて候ふなり。

と仰せられたは、称うるものを助けるという思し召しである。ここに信ずるものを、助けるという御言葉もあることなれど。つまり信ずるとたのむということは、学問の上では、広いと狭いの差別は立てられておるけれども。安心上にとっては、格別の相違はないことゆえに。今はたのむものを助けるという仰せと、称うるものを助けるの仰せと。この二つについて、御話しを致しましょう。


 祖師聖人や法然聖人は、多く称うるばかりで助けるという思し召しより伝えてくださるる様であるが。蓮如上人へ来てみると、一生涯たのむものを助けるという、仰せの一点張りで御化導下され。しかも称うると言うことは、御恩報謝に限ることとして。往生の正因にとっては、ただ称えては助からざるなりと、御叱りなされてある。そしてそのたのむばかりで助かる証拠といえば、いつも願成就の経文と、善導大師の言南無者の御釈ばかりを、御文の中に引いてある。

 ところが、同じ善導大師でも、礼讃や散善義には「衆生称念必得往生」と仰せられて。是は称うるばかりで往生が出来るという思し召しである。そこでこの、たのむと称うるということは、全体何処から来たかと尋ねてみると。元々阿弥陀如来が、衆生往生の正因を誓わせられた。第十八願の上に、三信と十念の二つの願事があるので。三信とは我等がたのむ一心のこと、十念とは名号を称うる大行のこと。この信と行との二つの御誓いのあるなかに。信の方から喚んで下さるる時の呼び声が、たのむものを助けるぞよの仰せなり。行の方から喚んで下さるる時の呼び声が、称うるものを助けるぞよの仰せとなるのじゃ。


 さてこの二つの御喚び声は、極めて簡単の仰せであるから。一応聞けばだれしも呑み込みやすいようではあるが、再往考えて見ると中々解らん。たのめばよいのか、称うればよいのか。二つそろえねばならぬのか、さほどの御世話のいらぬのか。そこへ善知識の御化導がまちまちと来ているものじゃから。頂くものこそ迷惑千万頂けたようで頂かれず。呑み込めたようでも呑み込み違いしておるものが沢山ある。その呑み込み違いをしていながら、我こそ御正意と思っておる人を異安心と申すので。
 
 
 先ず第一が、たのむものを助けるぞと、信のほうから喚んで下さる仰せを聞いて。たのむばかりのおたすけでありますかと、真受けにしたはよけれども。たのむばかりの御助けじゃもの、たのむ一念がなくてはすまぬと力を入れ。たのむ思いに苦心をして、たのんだから是で往生と。力んでおる人を意業づのりの異安心と申すのじゃ。
 
 
 次に、称うるものを助けるぞと、行の方から喚んでくださる仰せを聞いて。さては称うるばかりの御助けでありますかと。聞いたはいかにも間違いはないようでも。称うるものをの御誓いじゃもの。称えにゃすまぬと力を入れ。称えて所で往生の定まるように、考えておる人を口称募りの異安心と申すのじゃ。
 
 
 そこで第三には、たのめとあればとて、我等がたのめば自力になる。称うるというも同じこと、自力念仏は何にもならん。そこらあたりに心を懸けず、斯かるものをも御助けと。御助け一つに目が付けば、それで不足はないのじゃと。能信能行を払いのけ、このままなりの御助けと、思ってござる人々を、法体 募りの異安心と申すのじゃ。
 
 
 古来より幾多異安心を募るもののある中に。この意業募りと、口称募りと、法体募りの三人が、異安心の三幅対と申してもよいほどの親方株で。それよりいろいろと枝葉が分かれ、三業募りとなり、願生帰命となり、称名勝因や、十項秘事。不拝秘事や、地獄一定法門となってくるのであります。皆様は、異安心などと申すと、悪魔か外道のように思って御座るかも知れないが。そのような悪いものが、異安心などになる気遣いはないので。真実後生が大事にかかり、聞けども聞けども本願の正意が頂かれず。工面工夫の心配を尽くした結果、自分の心にかなった聖教の文句に、はまりこみ。大事の御助けを我が物にせず、是で往生に間違いないと、思うておる人を異安心と申すので。つまり御安心の結核世病人とも名づくべき、哀れ至極の後生願のことであります。
 
 かく申したら皆様方は、そのような安心上の病人こそ、気の毒なものじゃと、思し召すことでしょうが。その病人は、今日何処等におるでしょうか、結核菌は非常に伝染が激しいから、油断はなりませんぞ。今この御座に参ってはおりますまいか。旅か他国か昔話とばかり思っては下さるな。差し詰めて皆様を吟味してみたいものじゃが、皆様は。
「たのんで助かるつもりですか、称えて参るつもりですか。ただしはたのむも称うるも、用事はない、このままなりの御助けと思っておるのでありますか、如何で御座る。」
と問われたら、何とお答えなさいます。


「私どもはそのようなむつかしいことは更に解りませんが、ただ親様の御慈悲一つを、喜ばして貰うばかりであります。」
と、こんなことで腹を決めて御座ることならば。異安心では素より無いが、それは確かに無安心と申すものであります。大事が大事とかかればこそ、異安心にまでなるものの。大事のかからぬ人々は、兎角無安心のままで、同行仲間になって御座る御方が、何程あるやら知れません。
 そこで皆様の中には。
「ハイハイ無安心といわれても、構いません。私は素より無安心でも、如来様がよきようにして助けてくださるるに間違いないから、それで宜しうございます。」
と逃げ口上を持ち出す御方もあるであろう。それは所謂法体募りの口上です。知らず知らずのうちに、我が身は既に法体募りの結核菌にかかっておるのではありませんか。然らば御改悔文でも見事に述べて、ここを一つ切り抜くか。又は面倒の話し相手は御免を蒙り、念仏申すが手にて候と極め込むか。


 何れにしても、 意業、口称の分際を逃れることの出来そうもない聴聞ぶりでは。それこそ異安心の三幅対は、余所ではなかった、現在庫の座に満ち満ちておることになりますぞ。かく申せばとて、皆様に出言のかけ引きや、言い訳の稽古をしてくだされ、と言うのでもなく。義理や法門を覚えてもらいたい、と言うのでもない。ただ喚んで下さる勅命が、真実心に落ち着きの出来るまで。題字を書けて聞いていただきたいばかりで、このような入り込んだお話を持ち出したわけであります。