安心問答−浄土真宗の信心について−

浄土真宗の信心についての問答

以名摂物録 後編(松澤祐然述)「33 浄土真宗の大旱魃(だいかんばつ)」

※このエントリーは、「以名摂物録 後編(松澤祐然述)」(著作権切れ)からのテキスト起こしです。

※原文には、今日の目から見て差別語とみなすべき語彙や表現もありますが、著者が故人であること、当時の説教本であることも考慮してそ
のまま掲載しています。

33 浄土真宗の大旱魃(だいかんばつ)

 話が少し難くなって、いかにも講釈見たようになって来て、お気の毒を致しましたが。念仏為本や信心為本などということは、暫く御預かりとして。事実信仰問題に立ち戻って、御話しをして見ると。
 
 
 浄土真宗は、元より信心為本の宗旨ではあるものの。口で称うる念仏ということは、丸で近頃は放任主義を、とってあるように思わるる。是は一体どうした訳でありましょうか。信前の念仏は、御禁制にでもなってあるのか。又信後の念仏は、出任せにすべしというのか。まさか、そういう宗旨ではあるまいに。実際宗内の人々の、平生を眺めて見ると。
 
 
 名号あって、信心なしの人は少なくて。信心あって、名号なしの御方ばかりが、沢山にあるようじゃ。流れがなくて、泉のあるべき訳はない。信心に必具の流れが、名号である、称名である。その称名名号が、顕れぬものならば。その信心というも、聞いたまで、覚えたまで、喋ったまでのことで。真に頂いたのでないことは、道理必然であるまいか。


 しかし称うるというても、程度のある問題であるが。先ず祖師聖人の上より伺うて見ると。御自行の上はいうまでもなく。御化導の上に於いても、信心の前には、必ず名号を御勧め下されてある。信の巻の前には行の巻をおかせられ。「大行と言うは、無碍光如来の名を称するなり」。と称うる名号を先として、御勧めなされ。御和讃では。「弥陀の名号称えつつ 信心まことにうるひとは」と仰せられ、歎異抄にも「親鸞におきては、ただ念仏して等」。


 総て名号六字の念仏を先に挙げてある。しかしこれらは、所行所信の名号で、我等が能修能行の称うる念仏を、お勧めなされたのでないとするか。それらは、学問や理屈の上の話しにして。祖師聖人の思し召しからいうて見たら。先ず所信の名号を出して、聞かせるが。信心頂くまでは、称うることは許さんぞ、というのではあるまい。たとい信心はなしでも、一生懸命に称えよという、思し召しのあることは。「信心の人に劣らじと、疑心自力の行者も、如来大悲の恩を知り称名念仏はげむべし」と仰せられた御和讃の上で明瞭である。
 
 
 そこで蓮如上人へ来て見ると。御文の上では、只称えては助からざるなりとか、又は口先ばかりで称うる人は、おおようじゃと仰せられてある。けれども、この御言葉を曲解して何か口称の念仏を、御嫌いなされたものか、又は御禁制にでもなったように、思うておる人がある。是は大いなる間違いにして。全体蓮如上人の御時代には、鎮西流の念仏が盛んにして真宗内のものまでが。無信但行の念仏に、力を入れておる頃で。念仏申すことは、改めて勧めずとも。右も左も申しづめにして称えさえすりゃ、助かるように思うておるものが、沢山あった時代ゆえ。それを信心の正意に導かんがために、ただ称えては助からざるなりと、御誡め下されたもので。信心なしの念仏を、御禁制なされたのでは決してない。
 
 
 既に御一代記聞書の初めにも。「道徳はいくつになるぞ。道徳念仏申さるべし。」と先ず道徳に念仏を勧めて、次にその念仏に、自力他力の違いのあることを、御聞かせ下されてある。殊に一帖目の初通を御覧なさい。
「むかしは雑行・正行の分別もなく、念仏だにも申せば、往生するとばかりおもひつるこころなり。
「こよひは身にもあまる」といへるは、正雑の分別をききわけ、一向一心になりて、信心決定のうへに仏恩報尽のために念仏申すこころは、おほきに各別なり。」
とあれば信前の昔も、信後のこよひも、念仏申すことは、同じいが。只其の申し心が大きに格別じゃと仰せられたることなれば。信不信にかかわらず、念仏を申すべき思し召しのあることは、至って。明らかなることである。


 是によって私は、自力でも他力でも、信でも不信でも。そのような詮議は第二として。先ず称名念仏を励むというのが、結構であると思わるる。流れの見えぬ泉では、泉の存在までも疑わるる次第である。口には信心安心の沙汰はしていても、必具の称名の流れのないような事では。実に真宗信仰界の大旱魃と言わねばならぬ。称名の潤いがないのじゃから、一身一家の日暮も、円滑にゆかぬのじゃ。現在の渡世素行が円満にゆかぬから、御宗旨までが世間の人に笑わるるようになる。
 
 
 ここで私から初め皆様が、行業実に麗しく、念仏諸共家業勉励するようになったなら。それこそ真宗の光は、実に世界に輝きわたり。思潮暗黒の現代、危険思想に溺れておる人を、救済するに足るべきことと思われる。手近く申せば、汽車の中でも念仏申す人を見ると。何となく、ゆかしいような心地がする。旅へ出ても、念仏する家に泊まると。いかにも、心豊かに感ぜられます。私の知人にも、随分念仏を励む人がある。私はその人の信不信を問う隙はない、ただ敬慕の念に堪えぬのである。死なれた九州の七里恒順師、今は伊勢の村田静照師。私は御逢い申したことはなこれども、いと懐かしい思いが致します。
 
 
 斯く申したら、夫れは自力念仏を勧めるのか。自力念仏がなんになるかと批難なさる御方もありましょうが。その批難なさる御自身は自力でも他力でも、念仏などは申す心さえもなくて、他人の念仏をかれこれ批難なさるのは。実に邪険我慢の骨頂と、言わねばなりません。念仏を申して、自力になるような、危うい人ならば。申さずに居ては、尚更自力に違いない。貞信尼があるとき私にいうたことがある。
「なんぼ自力でも、称うる自力は手掛かりがあるが、称えぬ自力と来ては仕方がない」。と申しました。


 実に玩味すべき格言であります。よって私は助業の讃嘆供養でさえ、朝夕二時の勤行が、日課となっておる宗旨じゃもの。一歩勧めて、正定業の称名念仏も、日課の規則を制定して、僧俗諸共念仏を称えさせるようにしたならば。真宗繁昌の良策、時代救済の根底とも、なるべしと考えておることでありますが。それは一種の考案としておいて。
 
 
 兎も角も祖師聖人の仰せの如く。疑心自力の行者でも信心の人に負けぬよう、称名念仏励めよと、御勧め下されてあるからは。信心治定の御互いは。自力の人のお手本にせらるる我が身と心得て。名聞利養にならぬよう、成るべく人目に立たぬよう。御恩報謝の思いより、誰が笑うが毀ろうが。あらゆる諸仏にほめらるる、尊い功徳の御念仏。日課の仕事と心がけ、数に定めはつけずとも。励み励んで下さらば、真宗繁昌の基となり。国家安穏天下泰平、現当二益の幸福は、この上もないことであります。