安心問答(浄土真宗の信心について)

浄土真宗の信心についての問答

以名摂物録 後編(松澤祐然述)「39 雑行は報謝の記念品」

※このエントリーは、「以名摂物録 後編(松澤祐然述)」(著作権切れ)からのテキスト起こしです。

※原文には、今日の目から見て差別語とみなすべき語彙や表現もありますが、著者が故人であること、当時の説教本であることも考慮してそ
のまま掲載しています。

39 雑行は報謝の記念品

 第四には、善導大師の如きは、種々の観法を修し、持戒持律の御方であった。源信和尚も叡山横川で、三密の行を修し。法然上人は、常に円頓一乗戒を持って御座られた。これらはなみなみならぬ善根功徳である。龍樹天親の二菩薩は、善根功徳を御捨てなさるが。善導や法然ぐらいのものには、善根は多少あっても、捨てぬまんまで、お見逃し下さるのか。殊に吾が祖聖人は、二十九歳まで、聖道の修行をして。而も大曼の行までお勤め遊ばしたという評判であるが。これらの善根は、何処でどのようなことをして。お捨てなられたものか、更に解らん。そうして見れば、建仁辛酉の暦、雑行を捨てて本願に帰す、とは仰せられたものの。まさか善根功徳を、御捨てなされたものではあるまい。
 
 
 第五に、剃刀を捨てさせる譬の如きは、余り人情はづれの問題で、御話しにもならぬことである。皆様もよく考えて御覧なさい。子供が剃刀を持っており。剃刀は結構なものなれども、子供が持っておると、怪我をするから、親が是を捨てさせる。しかし只取ると泣く故に、子供の好きな菓子や、蜜柑を取り出して。坊よ、是をやるぞと呼びかけたとき、子供がその菓子に目が付くなり。己を忘れて剃刀を捨ててしまうとは。何たる滑稽な話しではありませんか。御安心のお伽話でもあるまいに。こんな事柄が、実際世間にあることでしょうか。子を持った親が、危険の剃刀などを。子供の手に取れるような、場所におくべき訳もなく。もし誤って子供に剃刀を取らせたとしても。その場合に於いて。只取ると泣く故に、菓子や蜜柑を出してやるとは。何たる呑ん気の話しではありますか。内の嬶等はそうではない。泣こうが叫ぼうが、かまやせん。気違いになって、引きちぎって、取ってしまいます。
 
 
 私がさるところに、この話をしたところが、或る同行は
「親が我が子を泣かせても、かまわんなどと、無慈悲の話あるものか。」
と小言をいうていたそうな。是は所謂愚痴な話というもので。他人なら泣かせては、後の始末に困るものの。親は泣き声を止める妙薬をもっておるから。急場においては、どんなことして泣かせても。泣いたまんまを抱き上げ、ソリャ一杯と乳房つけると直ぐだまる。然るに泣かせては困るから、蜜柑出してやるなどと。そのようなことをしておるうちに、子供は怪我をするに違いない。こんな話を真面目に喋っていられては、親様の智慧もなさけも、更に解らん殊になってしまいます。
 
 
 これらの話が、何から間違って来たかというに。毎度呉々も申す如く。一流安心の体は、南無阿弥陀仏のすがたなり、ということを忘れてしまい。信相といえば、凡夫の意業作業の心の出来ぶりや。思い振りがなければ、信心でないように考えて。遂にはその誤りが増長して。雑行捨てるということも、有り物をなくでもするか。持った品でも捨てるように思いこみ。軽率にも、善根功徳を捨てるのじゃ、と言い放つようになったのじゃ。然らば、雑行捨てるということは。如何なることであるこというに。一口に申せば、六字の届いた相であります。善根などが捨てらるるもでもなく。功徳を捨てる用事もない。善根功徳をかかえたままで、不思議の六字が届きさえすりゃ。己が功徳に用事はなく、後念に勤める善根までも。御恩報謝の大行と励むばかりに、なるのであります。
 
 
 貧乏の上に病み患い、今日食う粥の米もなし。食わずに死ぬる苦しさに、質八残らずおき尽くし。何の道具もなけれども、せめては是など売り払い。米の三合も買いたいと、古行灯に破れ箱。持って出掛けるそのところへ。親の手元より、千円の為替が送られてきた。その一念に古行灯捨てて受け取る用事はない。箱も行灯もそのままで、金の届いた上からは。売り出す世話のなくなったのが、雑行雑修の捨たったのじゃ。今日の御座の我々も。後生は食わずに、日の穴へ、堕ちる未来の苦しさに。用にも立たぬ古行灯、自力雑善の破れ箱。朝夕給仕の出来振りや、嬉しい心まで。せめては後生の足しまいに、数えてかかっておったのが。自力雑行というものじゃ。
 
 
 然るところへ、阿弥陀如来の親様より。無上甚深の値打ちある、六字の為替の届いたとき。お給仕やめてかかるでない、優しい心を捨てるでない。優しい給仕をしながらでも、それを後生の足しまいに。数える用事のなくなったのが、雑行雑修の捨たったのじゃ。古行灯を売り出す世話のなくなったは。こちらの智慧から出たのじゃない、届いた為替のはたらきじゃ。喜び振りや、称え振り、持ち出す用事のなくなったは。我が身の心の仕業でない、聞こえた六字のはたらきじゃ。要らぬ行灯と思っても、大事に始末をしておいて。貰うた金の御恩をば、喜ぶ記念にするがよい。要らぬ起行と思うても、後念の勤めは大事にし。受けた御恩の万分一、報謝の行とするがよい。是が即ち真宗の安心起行満足した、念仏行者というものである。