※このエントリーは、「以名摂物録(松澤祐然述)」(著作権切れ)からのテキスト起こしです。
前回の続きです。
※原文には、今日の目から見て差別語とみなすべき語彙や表現もありますが、著者が故人であることも考慮してそのまま掲載しています。
38 網派と縄派
それに付いて私が、大正三年の一二月十日のこと。越後の西蒲原郡和納村にて、汽車の時間の都合があって、竹内某という同行の宅を、久々にて訪ねたことが有る。
其時家内のものも大いに喜び、近隣のものにそれと告たと見えて、五三の同行もそこへ集まりて来た。時節柄北国の習い炉辺に団欒して、一応の挨拶がすむと突然竹内の老母が私に申すには。
『サテ松澤さん、当村では近頃の法義が二派に分れて仕もうて困りました』。
『サテネ二派とは、何派と何派かね』。
『ハイ網派と縄派であります』。
『サテモ珍しいものが出来たね、それは一体どうしたわけで』。
『ハイ是は当春彼方が御説教に御出なされて、井戸の中へ縄を下て貰うて、それに縋って上がるようなことでは、半自力半他力になる。当流は網に救い上げらるるのでなければ、絶対他力の第十八願とは申されぬと仰せられたので。其後二派に分れて仕まいました』。
『サテハ火元がこの私かね、それは誠に気の毒なこと、ソシテ御前さん方は何派の御仲間でありますか』。
『ハイ私共は残らず網派の仲間で、アノ御存知の甲蔵さんが縄派の隊長であります』。
『成程然らば甲蔵老人は、網にいれて引上て貰うのでは余り他力過て面白くないというなね』。
『ハイ甲蔵さんのいわるるには、松澤の説教のように、網にかけられてゆくようなことでは、信心もいらず安心もいらぬことになり。寺参りも何もせんで内に寝ているものでも網にかけられて連れられてゆくことになる。
当流では御助け候へとひしと縋り参らする思いがなくては一念がたたぬ。網の話しは法体安心だ、早く網の中から出て、縄にすがる思いになられよと、しきりに私等を勧められます。
此間も甲蔵さんは拙宅の門口をのぞいて、爰の婆々はまだ網の中に寝て御座るか、日の暮れぬ内に早く出たがよいぞ、と大声で怒鳴て行かれました』。『ソレハ親切の老人じゃ、それ程に勧められたら、爰の衆も暫く網から出て、縄に縋って見るがよいじゃないか』。
『ハイ私共はとても縄に縋る力がありませんもの、どうして網から出られましょう。それに付いて松澤さん、今年の夏面白いことがありまして、アノ乙吉さんの息子の七歳になる丙市が、ほんとうに井戸の中へ落ちましてね、ソリャというので直に釣瓶を下げましたところ、丙市がそれに取付きましたので。そろそろ引上げ初めると、中途で丙市が又ダボーンと落ちてしまいましたから。ソリャ見たか、松澤さんの仰しゃる通り、縋った此手が自力じゃで、落ちた落ちたと私共は勝鬨をあげました』。
『オイオイ勝鬨はよいが、その丙市はどうしたね』。
『仕方はないで急に梯子をおろして、父親がおりて抱て来ました』。
『ウムウムいよいよ他力づくめで丙市は助かったか』。
『ハイハイとても縋る自力では間に合わぬという、現の証拠を見せて戴いた、是も皆如来様の御方便と。私共は大勝利になりました』。
『それは芽出度い、然らば縄派の大将は降参したであろうな』。
『イヤ仲々甲蔵さんは負けはしません』。
『ソリャ又どうした訳か、此方で勝ったというは、先方で負たときのことであろうに。此方では勝たが先方では負ぬというては、近頃珍しい話しじゃ。どうやら欧州戦争で敵味方互に勝利をつのるような可笑しいことじゃのう』。
『ハイそこは甲蔵さんのいわれますには、丙市は自分の手で縋りたのじゃから中途でおちた。当流は南無の二字まで他力廻向だ、御助け候へと縋る思いは、自力で起すのではない。如来様から貰うた手で縋るのであるから、一度縋った上は決して落る心配はないと申されます』。
『如来様から貰うた手で縋るとは、いかにも驚いた説明だ。しかし当流は負けて信をとれとも仰せられてあれば、負けた勝ったはどうでもよいが。大体において網がよいの縄がよいのと争うて御座るは、譬えの上のことじゃが。その網とか縄とかいうのは、実際御安心の上では、何物に譬えるのじゃ、それは解っておるかね』。
『ハイそこの所は確かに解りませんけれども』。
『オイお婆さん、ケレ共もスレ共もないものじゃ。事実後生にとって何の事やら、かんの事やら解りもせずに、網がよいの縄がよいのと、何をいうて御座るのじゃ。まるで盲人同士のたたきあいと申そうか、子供のなぶりあいとも申そうか。後生の大事を抜けものにして、御法義を此世の慰みものにして御座るは、勿体ないことではあるまいか。さあ甲蔵や乙吉はどうでもよいが、一人一人の出離の大事と心確かに落付て、篤と聞いて下され』。
と汽車の時間の許す限り、委しく御話しを致したことがありました。
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