安心問答−浄土真宗の信心について−

浄土真宗の信心についての問答

「救われたとわかる」とは、何がわかるのでしょうか?(頂いた質問)

私は阿弥陀仏に救われたという人がいますが、そういうからにはその人は「救われたとわかる」何がわかったのでしょうか?(頂いた質問)

「阿弥陀仏に救われるとハッキリする」とか「つゆ塵の疑いもなくハッキリする」という人もいますので、よほど今まで不明だった部分がハッキリすると思われてのお尋ねだと思います。

とはいえ、いわゆる池上彰の「そうだったのか!○○」のような分かりかたではありません。池上彰さんのニュース解説は、現在も人気で多くのテレビ番組や著書があります。それらのテレビ番組や本を見たり、読んだりした人は、今までよく分からなかったこと、なんとなく分かったようで知らなかったことが、頭の中でよく整理できて「そうだったのか」と分かる分かり方です。いわゆる「合点した」訳です。

ですから、阿弥陀仏に救われたとか、信心決定の身になったというのは、その「合点」とは違いますので、そういう「わかる」ではありません。「なるほどそういうことだったのか」という「分かる」は、阿弥陀仏の救いの上には本来ありません。そういう意味で「分かった」と言っているのは「本当の意味で救われた」ということと、全くイコールの言葉ではありません。

それを蓮如上人の御一代記聞書にはこうあります。

一 おなじく仰せにいはく、心得たと思ふは心得ぬなり。心得ぬと思ふは心得たるなり。弥陀の御たすけあるべきことのたふとさよと思ふが、心得たるなり。少しも心得たると思ふことはあるまじきことなりと仰せられ候ふ。されば『口伝鈔』(四)にいはく、「さればこの機のうへにたもつところの弥陀の仏智をつのらんよりほかは、凡夫いかでか往生の得分あるべきや」といへり。 (御一代記聞書213)

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ここの意味は、今回のエントリーの言葉を使うと「そうだったのか」と池上彰のように分かったというのは、救われたとは言えない。池上彰のような意味では「分からない」というのが救われたということだ。阿弥陀仏が助けると仰せであることを、有り難いことだとそのまま聞き入れるのが救われたと言うことであるということです。
そういう意味で言うと「少しも分かった(そうだったのか!池上彰の阿弥陀仏の救いみたいなもの)ということはない」と蓮如上人は仰ったということです。


親鸞聖人が、不可称不可説不可思議の信楽と仰ったことを、ここでは4「少しも心得たると思ふことはあるまじきことなり」と言われています。昔の同行は「真宗は分かったら駄目だ」といったそうですが、それもこのことです。
阿弥陀仏の本願は「ここまでは分かるけれど、ここの部分は分からない」というものではありません。もしそうなら、仏様のことが、少しは、あるいは大部分が分かるという前提になっています。また、そういう考えの人は、その「分からない一部分が分かった」ことが、救われたことだと思っています。そのため、ある意味方角違いの「真剣な聞法」に励むようになります。しかし、その前提がそもそも間違っているのでそれでは、救われるということはありません。なぜなら、その不明部分が「分かった」のが救いではないからです。加えて、凡夫が「全部分かった」「そうだったのか」と分かるものは、「勘違い」か「うぬぼれ」以外の何物でもありません。


その意味で「阿弥陀仏に救われた」と言っている人は、何かそれまでの不明点が「そうだったのか!池上彰の○○」と分かるのではなく、分からないまま、有り難いことと聞き入れたということです。