安心問答−浄土真宗の信心について−

浄土真宗の信心についての問答

以名摂物録 後編(松澤祐然述)「18 仏法は無我にて候」

※このエントリーは、「以名摂物録 後編(松澤祐然述)」(著作権切れ)からのテキスト起こしです。

※原文には、今日の目から見て差別語とみなすべき語彙や表現もありますが、著者が故人であること、当時の説教本であることも考慮してそ
のまま掲載しています。

18 仏法は無我にて候

 サァ皆様、お考えがつきましたか、とてもお考えはつきますまい、朧月夜の聴聞で、只では駄目じゃと思い込み。他力の正体を見つけることの出来ん御方は。参って聞いて迷うておるより、暫く寺参りをやめて御覧なされた方が、結句早道かもしれんのじゃ。
 
 
 是から先の御話しは、全く自力の垢抜けした人でなければ、味わうことはならぬので。伊勢の津の同行に、私がこの話をしておる最中に、高座のもとで。
「是はしまいにどうなるのじゃ。」
と計らずも声を立てて叫んだ者が有りました。皆様も是はしまいにどうなることかと、先の解らんことならば。参らんですむか、聞かんでもよいかと、自力の力みをしておるより。試みに家に寝ていて御覧なさい。
「然らば明日から寝ていましょう、参って小言を聞くよりは。参らんですむことならば聴聞やめて寝ています。それで確かによろしゅうありますか。」
と念を押したい御方もあろうが。その御入念には及びません、勝手にお休みなされませ、必ず御参りなされますな。


「ハイハイ勝手に寝ています、必ず参りません。」
ヨシヨシそこまで行ったら真の他力が解るかもしれません。必ず確かに寝て御座れ。サァどうなる
「ソチが寝ていても。弥陀は必ず起こして見せるが。是はどうする。」


参りとなくば、参りなさるな。
「ソチが参りたくなくとも。弥陀が必ず参らせて見せるが。是はどうする。」


聞きとうなかったら、お聞きなさるな。
「ソチが聞きとうなくても。弥陀が必ず聞かせて、見せるがどうする。弥陀は聞かせにゃおかんの本願を、成就してあるのじゃぞ。」


 サァ皆様是が他力至極の御手際であります、御解りになりましたか。此他力至極の御手際を、知らざる人の言い草に。
「参らんでもよいか、聞かんでもよいか……。」


 アァ勿体ないことである。誰が参らせたのか、誰が引き出したのか。自分の力で参ったように思うて御座るで、そのようなことが言わるるのです。この爺一人、その婆一人、五欲のわが家を引き出して。この御座まで参らせて下さるる御難儀は、容易のものではありません。目には見えねど、諸仏菩薩は総掛かりで。前から引くやら、後から押すよう、右も左も護りづめ。
 
 
 ソリャコイソリャコイ、ソリャユケソリャユケ。中々、御本山の一の虹梁、八間半の大木を、越後の阿賀野川の川底より、引き出すときの難儀より。爺婆共を此の座へ、引き出す御苦労は、容易や大抵の御骨折りではなかったのじゃ。それほどまでの御骨折りで、ここまで引かれて来た上は。今度は本気で聞く気になるかと思いの外。心猿意馬と心は騒ぎどおしである。少し静まれば、眠気で耳は塞いでしまう。とても聞く気のないやつが、二十分でも三十分でも、耳傾けておるさえも。己が力は更にない、仏や菩薩が両耳押さえて下されて。ソリャ聞け、コリャ聞けの御護りがあればこそ。一座たりとも、聞かせて頂くことのできたのじゃ。それを知らずに、自力気違いの人々は。オレが参ったオレが聞いた、と思うて御座るものゆえに。参らんでもよいか、聞かんでもよいか、というような。他力潰しの力みが、いつもたえぬのである。
 
 
 そのように他力つぶして、自力の力みをして御座る御方々は。口で他力というてはいても。その他力が、丁度、猫の尻尾の先へ、蚊の止まったような、つまらん他力に違いない。
 
 
 頭も自力、頚も自力、手も自力、足も自力、胴も自力、尾も自力。自力と自力で残らず固め、尻尾の先で、他力をあしらって御座るのではなかろうか。それが証拠に、何ぞといえば、オレが参った、オレが聞いた、オレが信じた、オレがたのんだ、オレが任せた、オレが縋った、オレが晴れた、オレが捨てた。オレがのオレがオレが。丸で頭の先から尻尾の先まで、オレがオレがの自力で固め。「助けるだけが弥陀」という、珍無類の他力ではありませんか。それではたしかに、自力気違いといわれても、仕方はあるまい。
 
 
 蓮如上人は。

仏法は無我にて候ふ。

オレ我おれ我が一つあったら、他力はつぶれてしまいます。ほんに思えば、おれ我というものが何処に有る。


 そもそも人間に生まれてきたということがただ事でない。みんな諸仏如来の御方便、おれ我力は更にない。三悪道のどん底より追い回されてこの世まで折角生まれて来ながらも。後生菩提に気がつかなんだ此の奴が。三年前に可愛い娘に死なれたので、我が身の後生に驚きたち。人目忍んでも此の座へ参るようになったのも、おれが力であらばこそ。娘と思うたは凡夫の眼から見たことじゃ、やがて浄土へ参って見れば。娘と思うたが観音様であったかしれんのじゃ。夫れほどまでの御方便に預かったこの身と知れてみりゃ。おれがおれがの出し場はつきて、参るも他力聞くも他力。頂く信も、称うる行も、他力づくめの只の只。只で助ける御誠を、駆け引きなしにその侭喚んで下されたが。たのむばかりで助けるぞの、御勅命ど頂いて貰いたい。


 皆様方はたのめ助けるの仰せじゃもの、只で助ける訳はないと、思うて御座る様であるが。夫れは言葉の先に迷うておるというもので。たのむということは、全く只の只のことであります。是を一応手軽く御話しして見ると。私が大正四年の夏、久々に帰宅しましたとき。新調の五條を行李の中から取り出して。是が大門供養の記念袈裟であるかと、両親始め子供まで見ていたとき。私の母の癖として。
「是は随分地合いも硬い好い袈裟じゃ、定めて大金を使うたであろうのぅ」
と問われたから
「イヤ是は名古屋の同行にたのんで作って貰いました。」
と答えたところが家内中のものは。
「ふーむ夫れでは只出来た袈裟じゃなぁ。」
と一時に悟りましたが。皆様はどうです、たのんで出来たものならば、只出来たものに相違あるまい。


 今は袈裟や法衣の話しでない。無量永劫の後生の大事、百千万劫かかっても、浮かぶ瀬のない我々が。願せず行せず手濡らさず、たのむばかりで助かるなら、もとより只ではあるまいか。只で助ける御六字を、我が身のものとしてみれば。雑行雑修も只捨たり、自力疑心も只離れ。只手たのまれ、只まかせ、只で信心決定し、只で報謝の行も出来、信行共に只の只。只となったる上からは只でおけぬは只一つ。後念の勤めは只でない、勇み励んで油断なく。天下国家のお為にも、目出度うこの世を送るのが。真の念仏行者である。