安心問答−浄土真宗の信心について−

浄土真宗の信心についての問答

以名摂物録(松澤祐然述)「39 寝て居ては網にかからぬ」

※このエントリーは、「以名摂物録(松澤祐然述)」(著作権切れ)からのテキスト起こしです。

前回の続きです。
※原文には、今日の目から見て差別語とみなすべき語彙や表現もありますが、著者が故人であることも考慮してそのまま掲載しています。

39 寝て居ては網にかからぬ

 さて皆様よ只今の話を何んと聞いて下された、是れは決して越後計りにある話ではありません。随分ここら当りの皆様にも、同様の不審があるに相違ない。
 
 まず第一が網で救われる後生なら内に寝ていても助かるであろう。
 第二には網に入れられて行くことでは、たのむ一念の信相がたたぬから、法体安心になる。
 そこで第三には他力の手を貰って、その手で縋らねばならぬというような可笑しい議論になってくる。これらの問題が何から起こるかといえば、すべて他の力の在処を知らずして、唯だ文句の上や譬えの端で、安心を定めようとするから、かくの如き間違いが起こるのである。

 全体網や縄に譬えるは、何を譬えるのかと尋ねて見れば。実際は弥陀より届けて下さるる名号六字の外に何物も譬える品はないので。此六字の値打の知りようで、三願の味わいが分れて来る。
 
 
 まず六字を以て細い藤蔓ぐらいに、見てをるのが十九の願で。生死の井戸から上るには、六字の藤蔓一本では、とてもたよりになりかねるから。発菩提心修諸功徳と善根功徳の手掛りや足掛りを造って、かからねばならぬことになる。
 
 
 そこで此六字は細い藤蔓ぐらいのものではない。善本功徳の大丈夫の縄と見たのが二十の願。縄は大丈夫で切れる気遣ひはなけれども、縋りつかねば上られぬゆえ。係念我国植諸徳本と名号の縄は離さぬように、きばらねばならぬ。
 
 
 然るに第十八願は、此名号が摂取の網じゃと戴かれて見れば。此方で縋る用事はない。届いた網の他力づくめで、往生に仕損じのないことになる。是は世間の教理からいうても、物理から考ええても、よく解ることで、総て他方より加えられたる力が強ければ強いほど、此方の力のいらぬ事になるは当り前のことで。たとえ井戸の中へ一本縄を下げられたにもせよ。もしその縄に強い電気力でもあって、触るや否や吸い付けられ、身動きならぬ縄ならば、他力づくめのことになれど。
 今の話の如く、縋れば上るということでは、離せば落るの差別が立つようなことでは縄そのものの力というものは更にないことになつてくる。


 皆様よ此南無阿弥陀仏の御六字に、摂取の光明の不思議の力用のあることは。先日委しく御話をしておいた。よもや御忘れは下さるまい。摂取の力のあるものなら、確かに網に譬うべきものである。しかもこの網は、網そのものが極楽まで引っ張る力のある、名体不二の不思議の網が六字である。
 六字が網として見れば、甲蔵さんのいうように寺へも参らず内に寝ていて聞かんものには、是を届ける道がない。糸で造った網でなし、金で作りた品ではない、呼んで下さる六字が摂取の網じゃもの、参って聞かねば届きはせぬ。参り嫌いのこのやつが、参る身にして貰うたも、一世や二世の話でない、生々世々の御手廻し。他力づくめに引出され。他力の聲で聞かせられ聞いた御聲に救われて、他力他力で参るとは。どうした不思議の御手柄と、思い余って口へ出る、報謝相続の念仏も、他力大行の御催促。

元本をご覧になりたい方は下記リンク先を参照下さい。

以名摂物録 - 国立国会図書館デジタルコレクション

以名摂物録

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