安心問答−浄土真宗の信心について−

浄土真宗の信心についての問答

以名摂物録(松澤祐然述)「40 網相と信相」

※このエントリーは、「以名摂物録(松澤祐然述)」(著作権切れ)からのテキスト起こしです。

前回の続きです。
※原文には、今日の目から見て差別語とみなすべき語彙や表現もありますが、著者が故人であることも考慮してそのまま掲載しています。

40 網相と信相

引き続いてお話をいたしますが当流の絶対他力の味わいは、井戸の中へ一本縄をぶら下げて。縋れば上る離せば落ちるというような、軽業騒ぎの危ぶい他力では決してない。蓮如上人の御言葉にも。
『超世別願の網には迷倒の衆生を救い西方浄刹の釣針には称名を群品を引きたまふ』。
と仰せられてあれば、一本縄なら釣針の付いたものでなければならず。超世の別願は摂取光明の御力用なれば、確かに網に譬うべきことは、蓮師の仰せに依って明瞭のことである。


その摂取の力用を名号六字に封じこめ、これを我等が即是其行として。呼んで与えて下さるるが十七願の御約束。十方衆生の我々はその名号を聞いて信心歓喜の一念に、至心廻向と網かけられて。地獄一定の生地のまま往生一定の身にして頂くが十八願のこころであることは、前席に委しくお話を申しました。

それに就て面白い話もあるもので。先年私が金沢に一ヶ月ばかり布教していたその時に、ある同行が私の座敷へ来て。

「松澤さん彼方の御説教は、どうも法が強すぎるかと思いますが」
と申すので私は。
『余り法が強過ぎて悪いかね、お前さんは機を強うして往生するつもりかね』。
と尋ねたれば。

『イヤ法が強くて悪いという訳ではなけれども、彼方の説教には。たのむ能機の確かのお話が更にない故に、参詣人が無念無想の法体安心じゃと申しますので』。
と臆面もなく言ってくれたから私は。

『然らばたのむ能機をこれから強めて説教しますかね。私は法が強ければ強いほどこちらの世話のいらぬことと思うが。しかしその強い法が余所にあるので、こちらに届いてなかったら、たのみ力にもなるまいが。逃げても逃がさぬ御手柄が南無帰命と届いて下されてある上は、これに上越すたのみ力になるものはあるまい。それでこそ自力も離れ、雑行も捨たり、一心一向己れ忘れて余念なく、縋り任せて、受けた能機を立てようとするから、余計な面倒の出るのではなかろうか、この辺のところは十分注意して聞いて下さい』。
と申したことがありました。


前席に出た甲蔵さんのお話が、やはりこの金沢の同行等と一致しておるので。他より届いた力が、網のような絶対のものでは余り法が強過ぎるから。まず縄位のものにしておいて、その縄に縋った形を以て、能信の相と思って御座るもの故に。網にかけられて行くようなことでは、能機の信相が立たぬという難問が起ってくる。


なるほど網に救われた譬喩の上では、能機の信相はとても立たぬ。立たぬ筈じゃよ、能機に受けたのでもなし、信心が届いたのでもない。受けたは身体に受けたので、届いたは網が届いたのじゃ。


身体にかかった網じゃもの、能機の信相の顕わるる道理はない。しかし能機の信相は立たずとも、身体にかかった網相だけは、誰が見ても動くまい。ここでよく味わって見て下されよ。すべて何物にかかわらず、貰ったとか、届いたという相は。届いたその物が、現在にはたらいておる形の外に、届いた相のあるべき訳はないのである。


私の身体にこの袈裟をかけておる、この袈裟が他力御寄進の品なれば。袈裟そのままを用いてある形が、袈裟を貰ったしるしなれば、これを袈裟相とでも申そうか。この内陣に打敷が掛けられてある。その打敷のいわれは、そこに掲げてある寄進札で、高木氏の寄付ということが解っておる、その寄付廻向にあずかった相は、確かに内陣に活用してあるままが、貰った相、これが本堂内の打敷相である。然るにたとい打敷を寄付せられても、当寺の住職が確かに受取りた思いがなくては、貰ったとはいはれぬの。袈裟はかけていても、やれ嬉しやの心がなければ、獲得の相が見えぬなどと言っては。更に解らんことになってしまう。


今網の譬えでもその通りで。人間が網に救われたということでは、心のある人間に、心のない網が、掛ったことになるゆえに。その網にかかった一念は、どうじゃなどと。つまらぬ所に、話の迷いが出て来るが。一層の殊に、心のない石に、心のない網が掛かった事に仮定して考えて見て下さい。心のない石じゃもの、素より信相のあるべき筈もなし、喜びも哀しみもあるべき訳はない、実に無念無想である。さりながら、網の掛ったものなれば、相だけは明瞭に顕はれておるでしょう。この網掛ってあるそのままの相が。石の落ちられん相、沈まれん相。よりかかり相。よりもたれ相。任せた相。縋った相。石の力の間に合わぬ相。あらゆる相が、網その物の力用から顕はれてあるは、何人もよく御解りになるでしょう。


この味わいを以て、そのまま信仰上に転換して御考え下さい。受けるこちらが、石のようなものではない。有念有想の意識の上に、届いた品が、網のようなものではない。仏智無辺の御誠じゃもの、心に心を貰ったのが、何とて無念無想になっておらりょうか。思うまいぞといわれても思われて思われて、思いのやり場があらばこそ。その思いの起るのも、思おうと思って、思う心を起し、思う思いではない。思う思わぬの世話なしに、ただ思わるる思いである。


その思わるる相は、如何と尋ぬれば、たしかに御改悔文の通りである。網なら切れるためしもあるが、六字は切れたためしはない。無辺不断の御利益を、聞光力の一念に網より強い御六字が、心に届いて御座るもの。何が不足で余行余善に心の止むべきや。なるもならぬも世話いらず、この機ながめる用事つきて。真から底からたのまれてたのまれて、案じげもなく後生一つは御助け候へと。弥陀に帰する心の、露塵程も疑いなくなった信相は。誰にも遠慮あらばこそ、摂取せられた身一つに、結ばれ解けぬ御手柄で。能発一念喜愛心、繰り返して返しても、この一念が臨終まで続く相が相続心。取るなら誰か取って見よ、破らば誰ぞ破るべし。


こちらで定めた信でない、助けにゃおかんと我が胸に届いた親がたのまれて、力になって御座るもの。親に抱かれた兒心に、人がなぶればなぶるほど、たのみ心は増上し。何んぞ障れば障るほど、唯いやましにたのまれて。金剛不壊の信相は、人に尋ねるまでもない、胸に溢れるばかりである。

元本をご覧になりたい方は下記リンク先を参照下さい。

以名摂物録 - 国立国会図書館デジタルコレクション

以名摂物録

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