安心問答−浄土真宗の信心について−

浄土真宗の信心についての問答

以名摂物録 後編(松澤祐然述)「5 聴聞の地固め」

※このエントリーは、「以名摂物録 後編(松澤祐然述)」(著作権切れ)からのテキスト起こしです。
※原文には、今日の目から見て差別語とみなすべき語彙や表現もありますが、著者が故人であること、当時の説教本であることも考慮してそのまま掲載しています。

5 聴聞の地固め

 引き続いて御話しを致しますが。兎角信心安心の事柄は、目に見えない、無形のもん抱いてありますゆえ。解ったようで解らぬことも有り、飲み込めたようでも飲み込み違いのありやすいもので。御話し申す我々も、十二分の注意をはらわねばならぬは、言うまでもないことで。
 
 
 而もその説明をするについても、右からお話をして解らぬ人には、左から話をしてみねばならず。前から諭して叶わぬときは、後ろから諭す必要もあるので。たのむ一念に困って御座る御方には。たのまんでもよいと、言わねばならぬ場合もある。信心頂くにさまよいしておる人々には、時には信心も要らぬと聞かせてみねばならぬこともある。そのことは前席にくわしく御話しを尽くしました。
 
 
 然るに聴聞の基礎の、固まっていない人々は。たのむも要らぬ信ずるも要らぬなどと聞かせられると、忽ち驚いて。夫れは聖教に背いておる、夫れは異安心の話である。当流はたのむ一念がなくてすむのものか、信心為本の宗旨を何と心得ておる。と非難攻撃の矢を放ち、争い出す御方もあるように思われますが。
 
 
 なるほど聖教には一心に弥陀をたのめ、信心を獲得せよと、雨の降るほど勧めてある。そればかりではありません、まだまだあります。雑行捨てよ、自力離れよ、疑い晴れよ、縋る思ひをなせ、決定のこころをとるべし。と数えてみれば沢山ある。
 
 
 これは何れも肝要のことに違いはないが、たとい肝要のこととしても。それを一々我々の仕事のように心得て。思わにゃすまぬ、起こさにゃならぬとかかったら。いかに聖教通りかはしらないが、実際に我々の心にその様な思いが、悉く起こるものであろうか、どうでしょう。


 口で言うは容易いが、心のうちではそーはうまくは参りますまい。うまく参らんものじゃから、起こす思いに骨が折れ。安堵するのに心配し、他力他力と言いながら、いつか自力の深海へはまり。弥陀をたのんだつもりでも、実は自分の領解をたのみ。信心正因と力んでも、力んだ理屈で往生するような形になり。遂には無量永劫の、大問題を仕損ずることになるまいか。皆様よ、他人の話ではありません、理屈さえよければ通られる、裁判所とは違いますから。真実我が身の一大事と心得て、理屈を離れて。信仰の妙味に手ッ点するまで聞いてください。


 全体家屋を建てるには、先ず地盤の固めが第一である。自弁の固めをしないところへ、家を建てては。建てて建てられぬことはなけれども。建てたその家が、忽ち傾いてしまうのみならず。地震や大風に遭ったその時は、それこそ転覆という、大災害を受けねばならぬ。四十間四面の大堂が、建築以来何年経っても、一分一厘狂いのでぬは。用材も大工もよかったものに相違はないが。第一には大切の地盤の固めが、堅牢であるためである。
 
 
 皆様が一念帰命の自信建立なさるにも。第一に聴聞の地盤を固めてから、かかってもらわねばなりませぬ。もし聴聞の地盤が、固まってないところへ、一念帰命の柱立てをして。往生一定の胸を上げ、歓喜報謝の造作までして見ても。忽ち不安の傾きがでるのみならず、異学異見の大風にあったり。臨終の大地震が来たその時は、それこそ大変の騒ぎとなり。折角の後生も、極楽が地獄と転覆してしまい、実に情けないことになりますから。皆様も聴聞の地盤を、今日この座で確と固めていただきたい事であります。


 然らばその聴聞の地盤を固めるには、何で固めるがよいかというに。セメントやコンクリートでは固まりません。信仰の地盤は固まりません。信仰の地盤は、大悲真実の親心を以て、固めるより外はありません。祖師聖人は信の巻に、至心も、信楽も、欲生も、三信ともに、ここ一つという大事のところは。同じ一つの親心を以て固めてあります。先ず、その御言葉を読んでみると。

如来、一切苦悩の衆生海を悲憫して、不可思議兆載永劫において、菩薩の行を行じたまひしとき、三業の所修、一念一刹那も清浄ならざることなし、真心ならざることなし。如来、清浄の真心をもつて、円融無碍不可思議不可称不可説の至徳を成就したまへり。
  乃至
疑蓋雑はることなし

と仰せられてある。


 これが阿弥陀如来の燃え立つばかりの、御慈悲の有りだけを御示し下されたので。かかる尊きやるせなのない親心を以て、三信ともに一つ一つ結び固めてあります。皆様には御言葉が難いから、御心の取れかねる御方もありましょうが。此の世の親から考えて御覧なさい。可愛い我が子を助けるときは、助けてもらう子供より、助ける親がきちがいになってかかります。


 先日の新聞にも、東京のある運送屋が火事を出した悲惨の話が出ておりました。子供五人に夫婦二人、七人家内の有りだけが、二回に寝ていた夜の二時頃。階下の店から出火したのを、知らずに熟睡していたところを。通行人にたたき起こされ、驚いて飛び起きたが。階下ははや一面の火となっておるので、防ぎはつかぬ。何分指を並べたように、寝かしてある五人の子供。抱くやら負うやら引きずるやら、丸の裸で二階の窓から屋根へ飛び出し。屋根伝いに批難して漸く命だけ助かったと思ったが。
 
 あまりにうろたえて逃げたので、五歳の子供を一人取り残してきた。その時母親は狂気になって、その子を助けに立ち戻ったものの。無残や火事が済んでみてみれば、母親は我が子を火宅だけ占めたまま。親と諸共黒焦げになって、死んでしまったとのこと。
 
 
 サァ皆様この母親が我が子を助けにかかって時の心こそ。一念一刹那も清浄ならざることなる真実ならざることなし、という形であります。尤も凡夫の心は、この真実が続くものでも無し、しかも成功の出来ない悲しいことであったが。母親の心には成功の不成功の、と考えておるヒマはありません。
 
 人目に見れば、余り無考えの仕事のようにもおもわるる。一人のこのために我が身が死んでは、四人の子供を親無しにする。一人が可愛いか、四人が可愛いか、全体火の中へ入って、人間が何をとってこられる。もう少し後先の考えをしてみればよかったに。などと評議をしておるのは、畳の上のお話で。これが疑蓋雑まることあり、というものじゃ。
 
 
 今疑蓋無雑の母親は、可愛いと思い一念の外に、彼此雑ぜるものはない。財産も忘れ、夫も忘れ、家事も忘れ、危険も忘れ、命も忘れ、死ぬも忘れ。四人の子供も皆忘れ、ただ助けにゃおかん……と火の中で。我が子に飛びついた形が、全く疑蓋雑ることなしというところである。この疑蓋無雑の親心を、如何に微細に調べてみても我が子がたのんでおるかおらぬか、縋る思いはあるかないか、その思いではたすけられぬの。この思いにならせていの、というような味わいが。露塵ほども親の心に、あるべきはずのないことは、至って明瞭のことでしょう。


 これから考えて見て下されませ。今は大悲の親様が、清浄真実変わりなく不可思議兆載永劫のその間。衆生可愛いや悪人不憫の御心で、諸苦毒中の厭いなく、助けることにかからせられた。胸の内。疑蓋無雑とあるうえは、たのむ一念起こして来いの、自力捨てねば見捨てるのと。可笑しい味のあるべき訳は決してない。
 
 
 これをもう少し簡単に言えば。親が我が子を助けるに、条件のあるべき筈はない。弥陀が衆生を助けるに、条件があってたまるものか無条件で助けてくださるるが、疑蓋雑まわことなしというところ。これなら助ける。それなら助けぬ、という条件付きの親様なら、助ける御手元に、疑蓋が雑わっておるといわねばならぬ。疑蓋の雑わったものならば、真実大悲とは申されぬ。真実大悲の親様なら、何とあろうと、かとあろうと、助けやるには条件つけぬ。条件なしの御助けの、種が六字と出来上がり。発願回向と我が胸へ、与えて届けて下された。その一念にたのむとなり、縋るとなり、信心となり、安心となる。


 そうして見れば、たのむというも信ずるというも、助けてもらう条件では無い。御助けの届いた形なれば、たのまにゃならぬ、信ぜにゃならぬの議論の腰はぬけはてて。たのまずにおられぬことになったのが。凡夫自力のたのみでない、たのむ一念のありだけが、全く南無阿弥陀仏のお働きであるというけは、いよいよ明瞭になった次第である。