安心問答(浄土真宗の信心について)

浄土真宗の信心についての問答

以名摂物録(松澤祐然述)「37 摂取の綱が純他力」

※このエントリーは、「以名摂物録(松澤祐然述)」(著作権切れ)からのテキスト起こしです。

前回の続きです。
※原文には、今日の目から見て差別語とみなすべき語彙や表現もありますが、著者が故人であることも考慮してそのまま掲載しています。

37 摂取の綱が純他力

 勧修寺の道徳が正月の元日に蓮如上人の御前へお見舞申し上げたれば、上人は取り敢えず。
『道徳はいくつになるぞ。道徳念仏申さるべし。』。
とのたまいて、その念仏に自力と他力のあることを御示し下され、最後に至って。
『他力とは他のちからというこころなり。この一念、臨終までとほりて往生するなり』。
と仰せられた事が、御一代記の初まりに載ってある。


 他力とは他のちからというこころなりとは、いかにも手短かの御化導であるが。今日御集りの皆様のうちに、その他の力というものが確かに我身へ届いてござる御方が幾人あるでしょう。恐らくは稀のことではあるまいか。
 
 
 越後の香樹院師の仰せにも、歴々の大学者から始め、国に一人といわれにる程の同行に至るまで、大方鎮西の風下に立ておるのが残念でならん、と御歎きなされてあります。実に御互の聴聞には、その様な嫌いのありがちなことで、拙者から初め己は間違いうておると思うて、間違へておる気遣いはないが。間違いない間違いないと思うて、間違へておるのが真の間違いになるので。この世の間違いなら取返しもつきましょうが、未来の問題計りは間違うたままで出掛けて仕まうたら。無量永劫取返しはつきませんから、大事の上にも大事をかけて聞いて下さい。
 
 
 兎角皆様が、口では他力他力というてはおるが、その他力が実際に我が物になっておらぬものゆえに。心にはいつも自力意業の手離れが出来ていない。さて又その自力意業は、あかんぞあかんぞとはね除けてしまうと、遂には無念無想の法体にかたよって来て。中々正意の安心に基づきかねてござるのは、つまり他の力に接触してないから起こる間違いで。絶対他力の御助けに遇うて仕まへば、信心も安心も縋るも任せるも、一時に具はる譯なれど。折角御助けに遇うては見ても、 その御助けが井戸の中へ綱を下て貰フタや卯な、丸で軽業騒ぎの御助けでは、到底自力意業の世話のぬけよう道理はない。無理に自力の手を切れば、更に御助けの手係りのない法体安心になってくる。そこで拙者は唯信鈔の綱に縋る譬へは、確かに鎮西風の譬えにて、断然当流には用いられぬことを、詳しく前席に御話しを申した次第である。



 然らば当流の絶対他力の味わいは、何なる相であるやというに。そもそも阿弥陀如来は、一本縄や二本縄をぶら下げて、衆生が縋れば引き上げてやる、縋らぬ間は仕方がないというような、のん気の本願は建ててない。五本や十本どころかや、百本千本万本と、さても細やかに出来上ったのが、八万四千の光明の網である。その網を以て生死の海のどん底に、沈みきったこの私を救い上げて下さるるが、絶対他力の摂取の御働きであります。
 
 
 サア網にかけて上げて頂くことになれば、上げて貰うこちらの方では縋っておろうとおるまいと。縦になろうと横になろうと、逆さになりておろうとも、更に差し支えはない。これが真の他力づくめで、厘毛も自力の世話のいらぬと同時に、精神的に危うげもなく、必死と縋る思いというはここの形である。
 
 
 アノ網にかかった魚を御覧なさい、こちらの世話のいらぬどころか、ピンピンピンとはねまはり。逃げよう逃げようと命がけにやってはおれど、逃げる魚共の力より、逃さぬ網がつよいゆえ。魚の気儘に逃げられず、網の力で引き上げらるる如く、御座の我等も一度摂取の網にかけられてしまった上は。三毒五欲とはねまはり、貪瞋煩悩の逃げ支度、朝から晩まで堕ちる工面にかかりをれど。堕ちるこの身の力より、落さぬ摂取の働きが強過て、我等が勝手におちられず。弥陀の勝手に引き上げらるるとは、いかにも計らうことも出来ず、逆らうことも出来ぬ、絶対他力の力とはここのこと。
 
 
 網にかかった魚ならば、引き上げられたら大騒動、切られて焼かれて喰われて仕まうが彼等の因果。摂取せられた御互いは、引き上げられたら大仕合せ、但受諸楽の身にして貰うが、やがて滅度の利益である。

元本をご覧になりたい方は下記リンク先を参照下さい。

以名摂物録 - 国立国会図書館デジタルコレクション

以名摂物録

以名摂物録

資料 御一代記聞書1

本文中にあった御一代記聞書の全文です。

一 勧修寺村の道徳、明応二年正月一日に御前へまゐりたるに、蓮如上人仰せられ候ふ。道徳はいくつになるぞ。道徳念仏申さるべし。自力の念仏というは、念仏おほく申して仏にまゐらせ、この申したる功徳にて仏のたすけたまはんずるようにおもうてとなふるなり。他力というは、弥陀をたのむ一念のおこるとき、やがて御たすけにあづかるなり。そののち念仏申すは、御たすけありたるありがたさありがたさと思ふこころをよろこびて、南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏と申すばかりなり。されば他力とは他のちからというこころなり。この一念、臨終までとほりて往生するなりと仰せ候ふなり。

現代語版

勧修寺村の道徳が、明応二年の元日、蓮如上人のもとへ新年のご挨拶にうかがったところ、上人は、「道徳は今年でいくつになったのか。道徳よ、念仏申しなさい。念仏といっても自力と他力とがある。自力の念仏というのは、念仏を数多く称えて仏に差しあげ、その称えた功徳によって仏が救ってくださるように思って称えるのである。他力というのは、弥陀におまかせする信心がおこるそのとき、ただちにお救いいただくのであり、その上で申す他力の念仏は、お救いいただいたことを、ありがたいことだ、ありがたいことだと喜んで、南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏と申すばかりなのである。