安心問答−浄土真宗の信心について−

浄土真宗の信心についての問答

ただ今救うと聞いていますが、その意味がわかりません。(頂いた質問)

ただ今救うと聞いていますが、その意味がわかりません。(頂いた質問)

「救い」と「さとり」は違います。

「意味が分かりません」「よくわかりません」あるいは「もっと理解をしてから」という話を聞くことがあります。
これは、信心と理解を混同していることから出てくる発言です。
信心は、本願を聞いて疑い無いことです。理解は、聞いて分かる事です。


別の言い方をすると、救いとさとりを混同している言い方です。
阿弥陀仏に救われるとは、阿弥陀仏の本願を聞いて疑い無いことです。それは、何かを悟ることではありません。何か特別なことが分かったり、理解出来たことではありません。


南無阿弥陀仏となられて私に常にはたらいて下さり、呼びかけて下さっているのが阿弥陀仏です。その南無阿弥陀仏の仰せを、今の言葉で言えば「ただ今救う」です。ただ今救うと私に向かって仰ると言うことは、聞いた私の側から言えば「ただ今救われる」ということです。

母と子の譬えで考える

よく使われる譬えですが、南無阿弥陀仏と阿弥陀仏が私に対して名告られることを、母親が子供に対して「お母さんですよ」と呼びかけることに譬えて書きます。
母親が子供に向かって「お母さんですよ」と呼びかけるのは、私(母親)はあなた(子供)の母親ですよという名告りです。
それを聞いた子供の立場では、私(子供)は、この人(母親)の子供であると聞きます。

「お母さんですよ」という名告りは、そのまま「あなたは私の子供ですよ」という名告りになります。「お祖母さんですよ」と名告れば、そのまま「あなたは私の孫ですよ」という名告りになります。
「お母さんですよ」と名告るままが、「あなたは我が子である」と私に名前をつけて下さっているということです。

同じように阿弥陀仏が「南無阿弥陀仏(ただ今救う)」と名告られるということは、「私(阿弥陀仏)はあなたをただ今救います」ということです。
それを聞いた私の立場で言えば「ただ今救われる」ということです。
「ただ今救う」と名告るままが、「あなたは私が救う相手です」と私に対して「私は阿弥陀仏に救われる者である」と名前をつけて下さっているということです。

それは、母親が子供に対する名告りとちがい、阿弥陀仏の真実の名告りですから、疑い無く聞けばそのまま真実の救いとなります。

疑い無く聞く上には、理解とか知識は必要ありません。
子供が母親の「お母さんですよ」の呼びかけを聞いて「この人は母であり、私は子である」と疑い無いのは、子供に理解力があるからではありません。母親の呼びかけがそのまま、子供にそう聞かせるのです。

疑い無く聞いているのが信心。

ただ今救うと呼びかけられる南無阿弥陀仏が、そのまま私を救って下さるのです。
「理解しなければ」「よくわからない」というのは、計らいですからそれは捨てて、本願の仰せをそのまま聞いて下さい。ただ今救われます。