安心問答−浄土真宗の信心について−

浄土真宗の信心についての問答

「阿弥陀仏の仰せの通りに救われたいとは思っていますが、なかなかそうはなりません。仰せの通りになるとはどういうことでしょうか?」(頂いた質問)

「阿弥陀仏の仰せの通りに救われたいとは思っていますが、なかなかそうはなりません。仰せの通りになるとはどういうことでしょうか?」(頂いた質問)

阿弥陀仏の仰せの通りになったということは、自分の計らいがそこに働かない事です。自分の計らいを自分で止めることは出来ません。そこで、私の計らいがを否定する働きは阿弥陀仏の仰せそのものにあるということになります。ですから、私の計らいが否定されたそのままが阿弥陀仏の仰せにあった事です。


このため、阿弥陀仏に救われたとか信心決定というのは、私の計らいが阿弥陀仏の法によって否定されたことを言います。私の側には何も残りません。あるのは、南無阿弥陀仏の六字だけです。


それを御文章には、このように書かれています。

されば南無阿弥陀仏と申す体は、われらが他力の信心をえたるすがたなり。この信心といふは、この南無阿弥陀仏のいはれをあらはせるすがたなりとこころうべきなり。(御文章5帖目22通)

http://goo.gl/0IHOj0

私が聞法して間違いない確信を身に付けたことを信心とは言いません。もしそうなら「南無阿弥陀仏と申す体は、われらが他力の信心をえたるすがたなり」とは言われません。間違いない法を聞いたところには、自らの側に間違いない確信はありません。なぜなら「間違いない確信は計らい」であって、法を聞いたところでそれは否定されるものだからです。そうなったことを、阿弥陀仏の仰せの通りになったと言います。

ただ今助けるとの阿弥陀仏仰せにを聞いて下さい。ただ今助ける救われます。