安心問答−浄土真宗の信心について−

浄土真宗の信心についての問答

親鸞会でよく言う「真実が分からんものには、真仮は絶対にわからん」について(セイウチさんのコメントより)

セイウチさんよりコメントを頂きました。有り難うございました。

私も高森会長から「真実が分からん者(獲信していない者)には真仮は絶対に分からん」と何回も聞きました。その度に「ここは説くに説けない、言葉では伝えられないところなんだな。自分は未信だからわかるところではないんだ」と思って分かろうとするのを諦めていました。しかし今は、未信であっても「親鸞聖人の仰せによると、18願が真で19願・20願は仮じゃそうな。ならば、私は18願のみ聞いて19願・20願は捨ておこう」と領解すれば、それが真仮を分かったことになるのでは、と考えています。この考えでは間違いでしょうか。(セイウチさん)

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20110514/1305343110#c1305387358

「真仮が分かる」を、「阿弥陀仏に救われること」とするならば、18願を疑いなく聞いたことです。
ただ、セイウチさんのコメントにある「「親鸞聖人の仰せによると、18願が真で19願・20願は仮じゃそうな。ならば、私は18願のみ聞いて19願・20願は捨ておこう」と領解」は、教えを理解したことにあたります。獲信したという意味ならば間違いです。

「真実は18願、方便は19願、20願。方便を捨てて真実に入れ」と、親鸞聖人は教えられました。
その「教え」は、救われないと分からないものではありません。

親鸞会は、「真仮が分かる」という言葉に、二つの意味をつけて使い分けています。
一つは、「阿弥陀仏に救われる」意味、もう一つは「違いが理解できる」意味です。その二つを、場面場面で都合よく使い分けています。

今回の座談会のように、論理破綻をして参加者が「?」という顔をしたところでは、「真仮が分からないと(阿弥陀仏に救われないと)分からない」と言います。
反対に、今までのように19願の行を参詣者にさせるときに、「真仮が分からないと(理解出来ないと)救われない」といって、「それにはまず仮とは何か・・・」と話をします。

「ここは真仮が分からないと(獲信してないと)分からない」というのは、会長自らが説明に窮した場面で使う言葉です。参詣者が納得していない状況を、「そこは獲信しないと分からないのだ」ということで、理解できないことを参詣者の責任にしているだけです。

典型的な例が、今回の座談会にも出ていました。

私のところにくる手紙の中に、「19願の道一つ進ませてもらいます」と決意を送ってくる人がいる。
それは、正しく聞いているのか、説いている者が悪いのか?(会長「19願も、20願も欲生我国とあるから皆18願に向かっている」(5月8日二千畳座談会参加者より頂いた情報より) - 安心問答(浄土真宗の信心について)より)

どう考えても説いている者が悪いです。

しかし、多くの講師部、会員は、「正しく聞いていない自分が悪い」と思い、やがて「どのみち獲信しないとわからないのだから」と、理解しようという気持ちまで無くしてしまいます。

選択本願である18願一つを聞けと、親鸞聖人は教えられました。その通りに、阿弥陀仏の本願一つを疑いなく聞いてただ今救われて下さい。