安心問答−浄土真宗の信心について−

浄土真宗の信心についての問答

「本願を聞いて疑いないのが信心だと聞きましたが、ただ耳に聞いているだけと言うことと信心の違いがよくわかりません。」(頂いた質問)


お尋ねされたことについてはよくわかります。なぜなら、ただ聞いているだけならば、それは知った覚えたと何が変わるのか?と思われるのではないかと思います。

そのように思われるのは、聞いただけでなんになるのか?という思いが強いからではないでしょうか。

しかし、聞いてい疑いないのが信心であるとは、ただ本願を信じ念仏しているだけなのです。それに対して、名号の謂れを聞いていながらこんなことでは救われないと、我を張っていることを疑いとか計らいと言われます。

そのような疑い深い私に対して、南無阿弥陀仏と常に呼びかけられるているのですから、そこは我を張らずに負けるところです。

一 総体、人にはおとるまじきと思ふ心あり。この心にて世間には物をしならふなり。仏法には無我にて候ふうへは、人にまけて信をとるべきなり。理をみて情を折るこそ、仏の御慈悲よと仰せられ候ふ。(御一代記聞書160)

http://goo.gl/F2fBG2

(160)

 「概して人には、他人に負けたくないと思う心がある。
世間では、この心によって懸命に学び、物事に熟達するのである。
だが、仏法では無我が説かれるからには、われこそがという思いもなく、人に負けて、信心を得るものである。
正しい道理を心得て、我執を退けるのは、仏のお慈悲のはたらきである」と、蓮如上人は仰せになりました。

http://goo.gl/4jmPbC

ここで、正しい道理といわれているのは南無阿弥陀仏です。本願のいわれを聞いても、そんなもので救われるものかと言う我執を退けねばななりません。


教えからいっても、私が何かあがいたことによって救われるという事はありえないのです。にもかかわらず、南無阿弥陀仏で助かるものかと意地を張っているのが我を張っているということです。

例えて言えば、既に詰んでいる将棋で意地で投了を拒否する将棋指しのような状態です。すでに阿弥陀仏の方からそのまま救うと呼びかけられてですから、そのまま助けられると投了してください。