安心問答−浄土真宗の信心について−

浄土真宗の信心についての問答

以名摂物録(松澤祐然述)「15  たのむ仏は何れ」

※このエントリーは、「以名摂物録(松澤祐然述)」(著作権切れ)からのテキスト起こしです。

前回の続きです。

15  たのむ仏は何れ

 拝む仏と聞ゆる六字が不二不離にして、あたかも滅除薬の如く。声が薬で薬が声で、仏が六字で、六字が仏として見ると。仏体に逢うたも六字、聞いたも同じことゆえに。御文には名号を聞くということと、弥陀をたのむということを、全く一つにして御聞かせ下されてある。其名号を聞いて見ると、衆生が弥陀をたのむいわれも、たのむ衆生を助ける仏も、六字の中に機法一体と成就してあるゆえに。一流安心の体は、我等の胸から出すのでもなく、西方から今更手出しをして貰うのでもない。善知識より聞かせて頂く六字の相が、全く安心の体であるぞと御知らせ下されたが御文(おふみ)の提撕(ていぜい)である。


 夫に就て私が明治三十九年の四月、越前の坂井郡に名高き川尻の性光坊へ、蓮師の御忌会に参勤したことがある。此地方は小部分ではあるが、御法義は随分盛なことで。いかにも蓮如上人より三帖目第三通の御文を、態(わざ)と賜はった性光坊の由緒の蹟の偲ばれたことでありました。

 而も二十四日の晩は、群参の人々が残らず御堂に通夜をしている。そこで私に御示談をしてくれと頼まれたで。私は先ず御示談の前提として、一同に改悔を上られましょうと申すと。異口同音に満堂のものが御改悔文を陳(の)べあげた様子は仲々練習が出来てある。
 

 依って私は口を開き、御一同美しく改悔をあげられたは誠に結構だ。併(しか)し陳べた御改悔文では往生は出来ませぬぞ、陳べた心を御互に吟味して見ねばならぬ。皆様に御不審があったなら遠慮なく御尋ね下され、と申したところが。


 一人の同行が、何卒(どうぞ)尊公(あなた)から一同に尋ねてやって下されというので。然らば私より御尋ねして見ましょう。先ず只今の御改悔文に、一心に阿弥陀如来我等が今度の一大事の後生御助け候えと、たのみ申して候と陳べられたが。誠に弥陀をたのんで御座るに相違はなかろうと思われる。しかしそのたのまれ給う阿弥陀如来という御方は、何処に御座ると思えますかと尋ねたところ。


 私の左にいた老母が忽ち答えて。
『如来様は御仏壇の中に御座ると思うています』
と申した、其時同じ年頃の老婆が右より出て。
『御堂に御座る仏様と心得ています』
というので。私も此二人には殆ど恐れ入って仕もうて、皆様どうじゃ是でよいかと注意すると。


 今度は御堂の真中程にいた老父が。『私の聴聞は』と少し延上がっていうよう。
『成程御堂の中や御仏壇にも、仏様は御座るに違いはなけれども。我々を助けて下さるる御仏が、其様に沢山まします訳はない。天にも一仏、地にも一体と仰せられてあれば。是より西方十万億の浄土に御座る、今現在の親様が御助けと頂いております』。
と申して、いかにも遠い所へ親様をやって仕もうた。


 そこで私の目の前に聞いていた盲目の老人が。
『成程親様は西方に御座るに違いはないが。其仏様が尽十方無碍光如来と申して、大空の中にも大地の底にも充満(みちみち)て御座る、と聴聞致(いたし)ております』。
と答えた。何(いか)にも大きな仏になって来た、とても凡夫の相手にはなりそうもないと思うておると。


 そこへ七十ばかりの老婆が進みいで。
『御助けの親様は私の胸に宿って御座ると思えます』
と一言に答えた、さては火の手が近寄って来たぞと思い。さあ皆様はどうじゃな、まだ変った意見のある人はないかと尋ねたが。もう答える人は更にありませなんだ。


 何んと皆様方、仏法繁盛の土地に於てかくのごとき聴聞の仕末とは、実になげかわしいことではありませんか。人数多く集まったのが仏法繁盛とは申されぬ。千人万人集まって、御忌の御通夜を賑わしても、大事の聴聞がまちまちでは、蓮如上人は泣いて御座るに違いない。


 一つ後生を助けて頂く同行に、相手の仏が幾個出たか数て御覧。
 仏壇の仏、御堂の仏、浄土の仏、世界中の仏、胸の中の仏、丁度五通りの仏が出来た。
 たのまれ給う大事の仏が、此の如くに不定で、何やらかやら解らんような聴聞では。たのみ申して候うと、りきんで見ても、夫(それ)こそ無茶だのみ、空たのみと申さねばなりません。皆様は笑うて御座るようじゃが、余所のことじゃで笑うてもおらるるが。彼方方(あなたがた)は何処の仏様から助けて頂いてありますか、篤と考えて見て下さい。矢張り無茶苦茶たのみの御仲間ではありませんか。一大事の所ですから、心確かに聞いて下され、私も自分の信仰の有丈を、充分御話し致して見ましょう。


 先ず御堂や仏壇の絵像や木像様から、我々の助けて頂かるる訳のないことは、皆様よく御解りでしょう。助けて頂くはさておいて、火事でも出れば反って我々が御助け申さねば、焼けておしまいになる仏様であります。かく申せばとて、絵像木像は不用(いらぬ)のじゃと申すのではありませぬぞ。是は御崇敬上最も大切に御給仕申さねばならぬのですが、夫は暫く別問題として。ここで浄土に御座る仏と、世界中に充満て御座る仏というたに付いては格別の変りもありまい。

 
 尽十方無碍光如来にましませば世界中に充満て御座るは素よりのことなれど。其様な広漠のことを申しても、法性の理仏にまぎれて、我々の頂く御相手には感心の話しではありません。其遍照の光明も源(もと)は安養界に影現したまいた、仏体より放ち給うものなれば。余り巧者の話しはやめにして、単に西方浄土の仏体というてほしい。


 そこで我等が助けて頂く親様は、此西方浄土の仏体の外にないことは、何人と雖も動かすことの出来ぬ次第である。現に韋提希夫人は御覧なさい、其仏体を拝んで助かっております。しかし我々は韋提希夫人の如く、仏体から直接に助けて頂けましょうか。ここが一つの考えものでありますぞ。韋提希夫人は釈迦如来の加被力があったから、仏体を拝んだが、我等凡夫は何としても拝むことは出来ません。拝むことも遇ふことも出来ぬ仏体を、遠い浄土にかざっておいて、安堵しようとかかるから、たのむ一念に難儀したり、受心の詮索や、振向く思いに稽古のいるのではあるまいか。此辺のところは随分邪見我慢の心を離れて、よくよく味わって見ねばなりません。


 抑も阿弥陀如来の親様は、弥陀は浄土にいて衆生は娑婆において、弥陀と衆生と親子の間だ十万億の隔てをつけて助けるという、手緩い本願は建ててありません。第十八願に十方衆生を助ける前に、十七願を御建て下されたことを御忘れ下さるなよ、十二・十三の本願で出来た仏体で、直接に十方衆生が助けらるる位なら、名号成就はいらぬこと。墜ちる衆生の苦しみより、見ている親がやるせなく。飛付たいとは思召せど、五十二段も違うていては、とても衆生に近寄ることは出来ぬゆえ。世にも並びのない本願が十七願と十八願。生(いき)た仏の有丈が、名号六字に功徳をこめて、十方衆生諸有衆生、聞其名号の一念に、信心歓喜と宿りこみ。即得往生の早手業させて頂く御六字に。たのむ機もあり御助けの仏も御座るとしれて見りゃ。仏拝んだ韋提希も、六字を聞いた我々も、更に変りがあらばこそ。紙幣を持ったも金もつも、同じことなら紙幣でとる、紙幣は仕用(つか)うに重宝じゃ。仏も六字も同じなら、遠い仏にすがるより、近い六字で事が足る。六字で貰うた仕合せは、朝な夕なに仕用れて、口へこぼるる称名が、報謝の行となるうえは、家業渡世の中からも、吝(おし)まず仕用て損はない。此世をかけて未来まで、目出度い利益(もうけ)の出来るのは一流安心を頂いた、信決定の身の仕合せ。

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以名摂物録(松澤祐然述)「16 証誠は六字なり」 - 安心問答(浄土真宗の信心について)

元本をご覧になりたい方は下記リンク先を参照下さい。

以名摂物録 - 国立国会図書館デジタルコレクション

以名摂物録

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