安心問答−浄土真宗の信心について−

浄土真宗の信心についての問答

以名摂物録(松澤祐然述)「45 御助けの在処が違う」

※このエントリーは、「以名摂物録(松澤祐然述)」(著作権切れ)からのテキスト起こしです。

前回の続きです。
※原文には、今日の目から見て差別語とみなすべき語彙や表現もありますが、著者が故人であることも考慮してそのまま掲載しています。

45 御助けの在処が違う

御世話しい世話しい中を厭わずに、懈怠もなくようこそ御参詣下さいました。

この御世話しい中を繰合せて御座へ出るのを、火の中こいで聞くというので。ほんとの火の中ならこいで出らるる訳もなし、又ほんとの火が大千世界に満ちておろう道理もない。

この火と御譬えなされたは、我々の胸の中に、御世話しい忙しいと起こりどおしの煩悩のことで。煩悩の火ならば、大千世界何処まで行っても間断がないのである。拙者の門徒の蓮華庵貞信尼が熱烈なる求道のあまり。とても人交際などしていては、如実の念仏が称えられぬから、山へでも入って、本気で念仏致そうと。京都高台寺の山奥へ、人知れず小庵を結び、三年間念仏修行して見ても、確かな安心が出来ぬので、『静なる深山もおくもなかりけり、もとのこころをつれてゆく身は』。と一首の歌を残して、山から出てきた逸話があります。


成程山は静かでも、心はいつも騒がしい。その騒がしい心を連れて行く気ならば何処まで行っても静かなることのあらう道理はない。浅間山の煙のたたぬ日はあるとも、煩悩の煙のたたぬ時はなし。その煩悩の煙にまかれていでは、法を聞くべき時はあるまいに。皆様今日世話しい煩悩の日を過さぬやう、聴聞に心を入れて頂きたい。


さて前席より引き続いて御話し申す。四字尊号を六字尊号と六字尊号。鎮西宗では、弥陀の尊号を四字として、南無の二字は衆生から持ち出す。たのみ心というのじゃから、弥陀と衆生と出し合いの六字である。浄土真宗は弥陀の名号は六字なれども、鎮西の如く、南無の二字は衆生から出すに及ばぬ。

四字そのままが生きて働く即是其行の御助けなれば。たのめるいわれがあっても余る四字なるがゆえに。四字即二字の南無阿弥陀仏で、六字丸々が弥陀の名号と談ずることは、委しく前席に御話しを致しました。

これが平生業成と臨終業成の、水際の分かるるところで、皆様はたのむ一念のとき往生一定というころと、平素のように軽く聞いて御座らうが。これは鎮西宗などには、夢にも知らぬことで。鎮西宗ではたのむ一念どころかや、今日もたのみ明日もたのみ、今年もたのみ来年もたのみ頼んで頼んで頼んで頼んで死ぬまでたのみ通しにしていても。頼んだところではとても往生は定まらぬのに。

当流はあろう事かない事か。二度たのむのではない、三度たのむのではない、たったたのむ一念の短的という。電気のつくよりまだ早い、手を叩いて声の出るよりまだ早い。早いも早いたのむ一念の極促に、往生一定御助け治定とは。どうした訳でかかる早手業に無量永劫の大仕事が定まるのか。


さあ皆様方このへんの所を、篤と味わって見て下さい。不足のない三度三度の御馳走も、慣れてしまえば小言が出る。時には貧乏人の粗末の食事と、並べて見るがよい、不足どころか勿体ないと思わるるが如く。

鎮西宗では死ぬまで頼んで難儀しても、頼んだところでは往生は定まらぬ。いよいよ往生の決まり場は、臨終来迎というて、身体から霊魂の抜出るとき、西方より親様が御迎えに来て下されて。『汝仏名を称するが故に、諸罪消滅せり、我れ来って汝と迎ふ』。サア迎ひに来たぞと、御迎えの仏に逢うたとき、漸々往生一定と定まるのじゃ。
それじゃから鎮西宗は、この臨終が至って大事なので。心静かに正念往生せねばならぬ。若し臨終に妄想したり苦悶して、御来迎の親様に逢うことが出来ぬときは。生涯頼んだ念仏も、丸でたのみ損となって仕まって、もとの地獄へ落ちねばならぬ。哀れ墓ない始末で有る。


皆様や我々は、正念往生などが、仲々出来るものではない、多分は小便往生ぐらいな、御粗末至極の臨終であらうのに。そこらで定まる往生なら、とても参る望みは叶うまい。然るに有り難いは浄土真宗臨終まつことなし、来迎頼むことなし。死に場で定まる往生ではない。『平生のとき善知識の言葉の下に、帰命の一念発得せば、其時を以て娑婆のをはり臨終とおもふべし』と仰せられて、高座のもとの皆様が、六字の手柄に夜があけて。これが親様御助けと、たのまれた帰命の一念に、身体の命は終わらずとも、迷いの命は終わりとなり。地獄一定のこのままで、往生一定の身となるが、一念発起平生業成の宗旨である。


この宗旨の分れ目は、何処から違って来るかといえば。鎮西宗と真宗では、大体において、御助けの在処が違うので。鎮西宗の御助けは、浄土に御座る仏体じゃ。浄土真宗の御助けは、この座に御座る名号じゃ。鎮西宗は仏体の御助けを知らぬから、四字の名号に、自力たのみの二字を足し、南無阿弥陀仏の六字を以て、心存助給口称南無と浄土の仏を呼寄せる、道具に六字を使いたて。来て下されや阿弥陀様、どうぞどうぞと祈願請求の切ないたのみをするのじゃから。いくら頼んで見たとても、浄土の仏が臨終に、顔見せて下さるまでは、往生の定まろうようはない。


然るに浄土真宗は仏体の御助けそのままが、名号中に摂在せる超世不具の御手柄を、深く聞かせて貰ってて見りや。浄土に御座る親様は、死ぬまで我等は逢われねども。この座に届いた名号が、常来至此の御助け、四字で助かる御手柄がそのままたのめる南無の二字。二字即四字の御六字が、御助けの法であったかと聞信出来た一念に、たのまれたのじゃ助かったのじゃ。この座で助けて貰ってみりゃ、臨終待つことなし、来迎たのむことなし、死場の迎えに用事はない。気兼ねや遠慮で御迎え要らんというのじゃない、今来て御座る摂取の親が六字じゃもの、二度の迎えはなんにする。正定不退も六字の働き、必至滅度も六字の働き。六字一つの働きに腹のふくれたありなりが、信心決定の相ゆえ。鎮西流の信心は、凡夫の心が体となる。一流安心のその体は南無阿弥陀仏の六字の相と仰せられたはここの味はいである。

元本をご覧になりたい方は下記リンク先を参照下さい。

以名摂物録 - 国立国会図書館デジタルコレクション

以名摂物録

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