安心問答−浄土真宗の信心について−

浄土真宗の信心についての問答

以名摂物録 後編(松澤祐然述)「37 雑行雑修の捨て振り」

※このエントリーは、「以名摂物録 後編(松澤祐然述)」(著作権切れ)からのテキスト起こしです。

※原文には、今日の目から見て差別語とみなすべき語彙や表現もありますが、著者が故人であること、当時の説教本であることも考慮してそ
のまま掲載しています。

37 雑行雑修の捨て振り

 然るにこの六字の御手柄に、満足の出来ない人々は。体一つは浄土真宗でも、心は何時も鎮西宗に御座るので。命に代えても大事の大事の御助けの、光明摂取を六字の外へ抜き出して。遠い浄土の仏体に向かい奉り、助けて貰いにかかってござるものゆえに。
 
 
 たのむ手元の信相も、六字一つで足りもせず。縋る思いもまかせる味も、安堵も決定も助け給えも、一々自分の心を覗き。何時たりとも参りましょうの思いであるの。貴方なりやこそとドシンと打ちまかせた心地であるのと。混雑の仕事にかかり果て。疑い晴れるといえば、胸の中でも明るうせねばならぬように考え。自力雑行を捨てると言えば、何か持ったものでも捨てるように思うて。生涯難儀の仕上がりは、助かったか助からぬか訳解らず。さりとて臨終来迎の願いも出来ず。
 
 
 やがて死病に取りつかれ、胸の中ではウロウロの心配はあるけれど。長年聴聞の手前として、下手な歎きは出せもせず。苦しい心は病気に紛らせ。口先ばかりで、近寄る浄土を楽しんでおります、朋同行に上手並べておるうちに。一つの息の切れるなり、無間地獄の真ん中で。血煙立てて泣くまでは、目の醒めんようなことになっては。人間受生の甲斐もなく、仏法聴聞の所詮もないことになりますゆえ。皆様も心を止めて、真実に聞いてください。


 それについて、明治四十四年の春。宗祖大師の六百五十回の御遠忌が、御本山に勤まった当時に於いて。諸国より上京をした同行が、お西の総会所へ出て、出離の一大事に付いて、いろいろと御尋ね申した人々に対し。某学者が一々御諭し下されたのが、小冊子になってひろまってある。それを読んで見ると、実に有り難い話も沢山あるが。さてまた解らんことや、間違うたこともいうてあるので驚きました。
 
 
 その一節に或る同行が御尋ね申すには。
「雑行というは善根功徳のことじゃ、ど承っておりますが。私は善根功徳などは、更に無いものであります。そうすれば、雑行捨てよと仰せられても、捨てる品のないものは。どうなったのが、雑行捨てたのでありますか。」
と申し出た。
 そこで某師のお答えの大要は。
「凡そ雑行を捨てるということについて、二振りの捨てようがある。一つには善根功徳を持った人の捨てるのと、二つには持たぬ人の捨て振りである。
 龍樹菩薩や天親菩薩は、一台阿僧祇劫の間。お積みなされた善根を残らず捨てて。弥陀をたのんで仏にお成りなされた。是が善根功徳を持った人の捨てようである。
 今日の我等は、そのような善根功徳はなけれども。仏になるのじゃもの、少しは善い心になりそうなものじゃと、罪福心を以て善根功徳に目の付いたのが。弥陀の誠の聞こえたとき、善根功徳に、目をつける用事のなくなったのが持たぬものの捨て振りである。
 譬えて言えば。子供が剃刀を持っておる。剃刀は結構なものなれども、子供が持っていては、怪我をするから、それを親が捨てさせる。しかしただ取ると泣く故に。親は子供に相応の、菓子や蜜柑を取り出して。坊よ是をやるぞよというたときに、その菓子に目が付くや否や。剃刀を捨ててしまう是が持ったものを捨てる形である。
 持たぬものの捨てるというは。未だ剃刀は手にとらねども。向こうにピカピカ光っている剃刀に目が付いて。子供はそれを取ろうとはいかかる。そこへ母親が、坊よこちらに蜜柑があるぞと聞かされたとき。その蜜柑に目が付くなり、剃刀を取ろうとする心が捨たる。是が持たんものが捨てたのじゃ。
 今我々も、後生の大事に気付いて見ると、善根功徳の剃刀に目が付いて。善い心になるたいものじゃ、と思うておる所へ。阿弥陀如来は本願名号の蜜柑を差し付け。是を与えて助けるぞと。呼んで下さる、仰せの聞こえた一念に。善根功徳を眺める心の、なくなったのが。雑行捨てた相である」
という御諭しでありました。


 是は古来の説教本に、幾らも出ておる御話しであるから。皆様も折々は御聞きなされた事も有ろうが。斯かる黴びれかかった御話しを以て、今日の学者が研究もせずして。説明して御座るとは、甚だ以て恐れ入る次第である。
 
 
 是が即ち浄土真宗の信心安心を、此の機のなられ振りや。思い振りでばっかり沙汰をして。大事の六字の喚び声を、信心の動機か、挨拶の先鞭ぐらいに見なしてしまい。六字がそのまま信心であるということを、忘れて御座るので。丸で信仰の基礎から違うておるものゆえに。雑行捨てるということも。有ったものをなくするか、持ったものでも離さねば。信相が立たぬように考えて、こんな御諭しをなさるので。実に歎かわしいことであります。
 
 
 依って私は此の御話しについて、不審のあるところを挙げて見ましょう。
 第一に、善根功徳というものが、事実上ほんとに捨てることの出来るものであろうか。
 第二には、罪や障りがあってさへ、邪魔になさらぬ阿弥陀様が。善根功徳を捨てさせなさるとは、そもそも解らん。
 第三には、善根功徳を捨ててしまっては、真宗は邪教になってしまうまいか。
 第四には、善導様や法然様は、生涯戒行を持って御座られたようじゃが。是は善根を持ったまんまで、お見逃しなさるのであろうか。
 第五には、剃刀の譬えの如きは、余り親様を馬鹿にした、人情はずれの話しではあるまいか。
 私はこれらの不審を一々詳しく説明して。最後において、信ずるところを、陳べて見たいと思います。