安心問答(浄土真宗の信心について)

浄土真宗の信心についての問答

以名摂物録(松澤祐然述)「16 証誠は六字なり」

※このエントリーは、「以名摂物録(松澤祐然述)」(著作権切れ)からのテキスト起こしです。

前回の続きです。

16 証誠は六字なり

 涅槃経の中に三界は安きことなし、猶し火宅の如しと仰せられて。釈迦如来が三千年の昔より、火事じゃ火事じゃと大声あげて呼んで御座るは、何の火事であるかといえば。家や倉の火事ではない、五尺の身体の焼ける火事。御覧なさい鳥辺野の煙り絶えるひまなく、昨日は隣の娘が焼けて仕もうた、今日は向いの亭主が焼けている、と実に恐しい火事場であります。
 
 
 家や倉なら焼けたあとから造り直しも出来ようが身体ばかりは一度焼けたら、造り替えの出来ぬのに。今日じゃあるまい明日じゃあるまいと、油断しているその内に。無常の風が今宵にもゴート一風吹いて来たら忽ち焼けて仕まわねばならぬ、恐しい火事場におる此身ですから。
 『命のうちに不審もとくとく晴れられ候わでは、定めて後悔のみにて候わんずるぞ、御意得あるべき候う』。
 の御意見に基き急いで出離の一大事、火事の出ぬうちに用心して、安堵決定致しましょう。
 
 
 さてこれまでは名体不二不離の関係より説き進めて、拝む仏と、聞ゆる仏のあることを御話しに及び。いよいよ頼む仏はどの仏であるかということを弁じましたが。是は今更の話しではない、随分古来の学者間にも、名号所帰か仏体所帰かなどと、難しい議論もあり。同行衆の中にも、何処の仏を頼むのじゃと心配している御方もあるが。決着のところ前席に話した川尻の同行の如く、曖昧として何が何やら訳解らずに御座る仕末では、実に当所(あてど)なしのたのみといわねばなりません。
 
 
 是に依って尚もここの所をくわしく御話しをして見ましょうが。全体阿弥陀如来の御手元では、既に名体不二の正覚を御取りなされてある上は。仏体でも助けて下され、名号でも、御助けが出来ることじゃから、皆様の御都合次第で、仏体でも、名号でも、御勝手のよい方から、助けて御貰いなさるが宜しいが。しかし西方浄土の仏体は、まるで我々とは境界が違っておるので、遇うことも近寄ることも出来るものではない。其相手にならぬ仏体を十万億の向うに置いて。此処で安堵しようにかかるから。何度頼んで見ても御助けに遇うた形がないゆえに、ツマリ係念我国の二十の願の分際で。至心信楽己れを忘れて無行不成の願海に帰するという、第十八願の信仰は得られぬのである。
 
 
 殊に阿弥陀如来が十二・十三の本願で成就なされた仏体で、直接に十方衆生を助けることが出来るなら。名号成就に御難儀なされた、十七願は贅沢品である。ソコデ十二・十三の仏体の外に、十七願の名号を成就なされた、奥深き由来を伺うて見ると。
 先ず御和讃の中に。
 『超世無上に摂取し選択五劫に思惟して、光明寿命の誓願を、大悲の本としたまえり』。
 と仰せられて。四十八願の其中に十二・十三の光寿二無量の本願が、大悲の本じゃと、いうてある。本とは資本のことで、資本(もとで)がなくては商売はならぬ。しかし何商売にせよ資本があっても、其資本を箪司の中や座敷の隅に寝させて置いては儲けが出来ぬ。百姓ならば肥料とか、呉服屋ならば反物の仕入とか、夫々商売の品物に資本をつぎこまねばならぬ如く。今阿弥陀如来衆生済度の資本たる、光明寿命の誓願が出来上っても。其大切の資本をば極楽浄土の蓮華の上にのみ飾りて置いて、十方衆生の代物につぎこまねば、衆生済度の利益は出来ぬ。
 
 
 それもつぎこむ相手が智者や聖者であったなら、光寿二無量の資本のままで取引も出来ようが。心想羸劣未得天眼の凡夫と来ては、とても仏体のままでは注込ことがならぬゆえ。その仏体の功徳有丈を、耳に聞ゆる名号、口に称えらるる六字、心に持(たも)つことの出来る勅命に成就して。呼んで聞かせて摂取して、思いのままの利益をせずばおかんぞが、第十七の誓願である。言葉をかえていうて見れば、拝む仏の御相を、聞ゆる六字に身をやつし。十方衆生の腹底へ、至心信楽と宿りこみ、若不生者の本望を遂げてやろうが名号成就の目的である。
 
 
 この本願を御建なされた当時に於て、空中讃言決定必成無上正覚と、早や諸仏の讃嘆が始まったものの。是が我々凡夫同士のことならば、茶飲み話の高笑い。
 『何と妙音仏、近頃法蔵菩薩の面白い本願の御聞きになったか。僅か六字の名号に光寿二無量の功徳をこめて、我々諸仏の手に余った、悪人凡夫を助けるとは、恐入りたる次第では御座らぬか』。
 『いかにも浄光仏仰せご尤もで御座る、生きた仏の身体をば、六字に化て衆生貪瞋煩悩中へ飛込んで、浄土へ引上げるなど、法蔵比丘の目論見は、余りのことに正気の沙汰とは見えませぬ、コンナ無理の本願がよもや成就を致そうか』。
 と笑い話をしている中に。法蔵菩薩は一心不乱、笑わば笑え謗らば謗れ、出来ることなら誰もする。出来ぬは承知で建た本願、無理は元より覚悟の手前。是より外に悪人助ける道がない。建てた超世の本願を、無にするならば我も誓うて正覚とらじと。兆載不可思議永劫のその間だ、欲覚瞋覚害覚を起さず、色声香味触法に着せず。忍力成就の命がけ、諸仏菩薩の目の前で、見事立派に南無阿弥陀仏という本願の出来上ったが十劫の昔。
 
 
 ソコデ十方の諸仏は一時に腰の抜けるほど驚いて。アラ成就(でき)た、アラ成就た。生きた仏と寸分変らぬ六字が成就た、鬼も助かる六字が成就た。ナント不思議、ナント不思議、百千倶胝の劫をへて、百千倶胝の舌をいだし、舌ごと無量の声をして、弥陀をほめんになおつきじ。褒てつくせぬ御手柄は、聞いて助かる六字の不思議。何時まで讃嘆して見ても、我等が口は閉じられぬと。恒沙塵数の仏達、万行の少善きらいつつ、名号不思議の信心を、ひとしくひとえにすすめしむ。勧めて聞かん其時は、聞かん衆生に無理はない、極難信の法じゃもの。
 
 
 五濁悪世のためにとて、証誠護念の役廻り、一切諸仏が引受て、聞かせるまでは舌を引かんと総掛り。欧州全体の騒動も、元はセルビアの事件から、おさまりつかぬ戦争も、一度は平和になりもしょう。諸仏の護念証誠は、本をただせば十七の、悲願成就のゆえなれば、同勧同讃同証と、仏境界の大騒ぎ、是はおさまる時がない。釈迦は往来八千度(たび)、往つ戻りつの御苦労で、末世に生れた我々は。勧むる声に攻られて、是が親様仏様、抱いて落さぬ御六字が、金剛心と知れて見りゃ。余りのことに驚いて、自力雑行の腰はぬけ、摂取心光の捕虜となり引かれて参る往生は。さても不思議や南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏

続きはこちらです。
以名摂物録(松澤祐然述)「17 廻向は六字なり」 - 安心問答(浄土真宗の信心について)

元本をご覧になりたい方は下記リンク先を参照下さい。

以名摂物録 - 国立国会図書館デジタルコレクション

以名摂物録

以名摂物録