安心問答−浄土真宗の信心について−

浄土真宗の信心についての問答

以名摂物録(松澤祐然述)「11 相談しても結果は不明」

※このエントリーは、「以名摂物録(松澤祐然述)」(著作権切れ)からのテキスト起こしです。

前回の続きです。

11 相談しても結果は不明

 総て相談というものは、何事にかかわらず、必ずそれと実行が伴なわば、何の功力のないものである。国会でも、県会でも、市町村会でも。議員が何程の相談をきめても、実行することが出来ぬならば。所謂小田原評議というものであります。是によって、事の大小を問わず、先手に出たる相談でも、後手に受けた話しでも。必ず三つの要素が揃わねば、何の用事は足らぬもので。

『何じゃお婆さん朝から居眠をしているね、幸い金平糖が袂にある、是を遣りましょうか』。
 是が些細のことなれども、相談の出しである。そこで婆さんが、いりませんと断って仕まえば、話しは無茶になるが。
『夫は御親切に、どうしたことか眠気がさして困ります、左様なら金平糖を頂かして下されませ』。
 是が相談の受けというものである。そこでこの出しと受けとの二つにて、相談は決まったが、是だけでは用事が足らぬ。必ず第三に実行といって、其金平糖を受取って、口の中へ入てしまわねば眠気は醒めぬ。

 是を会議などの法からいうと、原案と、決議と、施行というものである。金銭問題でいって見ると
『旦那様恐れ入るが五十円の御貸付を願います』。
是が話の出しである。
『貸してやるぞ』の返事が相談の受け。
 此二つで相談は決まったが。いよいよ五十円の耳を揃へて渡して下さるる、結果の一つが欠けていては、借金払いの間には合わぬ。是は田地の売買にしても、嫁婿のやり取りにしても同じことであります。


 そこで今、阿弥陀如来の我を一心にたのめ必ず救うべしと、先手かけての呼声を聞いて。是を相談の出しと心得て、我々は其相談相手になって出て。座に座を重ねて聞かせて貰えば、無理の仰せも更になく、難儀の話しでもないことで。罪はいかほどふかくとも、我をたのめ、我に任せよの仰じゃもの。いやじゃと冠振られようか、嘘じゃと二の足踏まれようか。かかるものをも御助けとは、何んたる大悲の親様やら。左様ならば御助け候えと、重ね返事で受けては見ても。出しと受けとの二つは揃い、相談はまとまってしまったが。哀しや最後の結果として。汝はよくも我をたのんだ、ここで助けてやりますぞの、実行が一つ欠けているので。高座のもとではありがた涙で返事はしても。


 家へ帰って心静かに、出かける未来と踏み出して見ると。何となく物足ぬ思いと、淋しい心のたえぬものから。是ではまだたのまれたのではなからうか、と頼む自力の手も引けず。何度たしかにたのんで見ても、落付かれぬので困りはて。このままなりの御助けじゃもの、彼尊に間違いのあるものかと。法の手強い御手柄で、此機の世話を片付けて見てもどうやら気済みが致しかね、途方にくれて苦しんだり、無理におしつけて定めて見たり。行きつ戻りつの混雑は、安心どころか大心配の騒ぎで御座る。こんな騒ぎが何から起ると尋ねて見れば。弥陀と衆生と相談して定める後生と心得て、返事は確かにして見ても。最後の御助けに預かりたか、預からぬかの、大事の結果が生涯知れぬもの故に。決定の出来る道理はないのじゃ。


 是が聴聞になさけない程方角違ひをしているので。阿弥陀如来は、今更衆生にかける相談はない。衆生にかける相談は、五劫の昔に済である。五年や十年の話しと違い、五劫という長い間だ。我等がこころを目の前にかざり、縦から横から右から左から。何んぞ助ける縁はないかと、瞬きもせず此機に相談かけて下されたれど。参る機もなし行く機もない、強業難化の徒ものであったればこそ。衆生相手に相談しては、五劫が十劫百劫千劫かかっても、助ける道は纒(まとわ)らぬゆえ。衆生相手の相談やめて、逃よば逃れ、逃さぬ法を弥陀の手元に成就して。与えて助けて無理やりにも、浄土まで引寄せずんばおかんぞと。兆載永劫の御修行で、目出度出来上りたが六字の呼声。返事も相談もいるのじゃない、今は真実功徳の取引を、実際にさせて頂くときである。仲立人は善知識、下さる品は六字の宝。聞得る信の一念に、変らぬ六字の主となり。確かな返事は出さずとも、確かな親に抱かれて見れば。たのみ力になりすぎて、此機ながめる用事のなくなったのが。雑行捨てて弥陀を頼んだ相であります。さぁ此上は、後生に此機の返事はいらぬで。娑婆は此機に油断せず、親子兄弟機嫌よく。アイアイアイと返事して、下女や下男や他人にも。無理の言葉はつかわぬやう此機を攻めて人を攻めず。目出度此世を送りてくれよが、真俗二諦の御教化である。

以名摂物録 - 国立国会図書館デジタルコレクション

以名摂物録

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