安心問答−浄土真宗の信心について−

浄土真宗の信心についての問答

以名摂物録(松澤祐然述)「10 六字は相談の文句に非ず」

※このエントリーは、「以名摂物録(松澤祐然述)」(著作権切れ)からのテキスト起こしです。

前回の続きです。

10 六字は相談の文句に非ず

 世には不思議のものの沢山あることで、火は物を焼く、水は物を濡らす。蒸気の力、電気のはたらきなど、まことに不思議のようですが、しかしよく考えて見れば、随分理屈の解らぬこともありません。しかるに、音声法の御六字で、造悪不善の我々が、仏になるというは、実に霊妙不思議のことで。是が虚偽でないと信じてみれば、誠に腰のぬけるほど有り難いことではありませんか。


『いつつの不思議をとくなかに 仏法不思議にしくぞなき 仏法不思議ということは 弥陀の弘誓になづけたり』
 不思議も不思議も大不思議。智慧第一の舎利弗も、神通第一の目連も。弥陀の名号、六字の不思議は、実に量り知ることの出来ぬ、不可称不可説不可思議の名号なればこそ。十方の諸仏は口をそろえて是を讃嘆あそばされ。代々の善知識は、懇ろに是をお伝え下さるるので。頂く我らは世話もなく、善知識の教えのままが、御助けの大法なれば。よく聞くところにて、往生の心行を獲得することのできる、絶対希有の教えでありますから。当流においては、善知識の御言葉を、非常に尊崇して。如来の金言と頂き奉ることは、他宗などには夢にも知ることの出来ぬ味わいであります。


 然るにこの点において、甚だしき間違いの起こりやすい、傾きのありますのは。かかる尊き御六字を、六字といえば、無上宝珠の名号とも、大善大功徳の総体ともいって。いかにも、宝物の如く尊まれ、往生の正因と頂かれるようではあるが。さぁこの六字をたのむばかりで助けるの、お呼び声じゃといわるると。忽ち意味があらたまってきて、何ぞ如来様より我々へ、相談でもかかりて来たお言葉のように聞き誤り。是に対して衆生より、御挨拶でも申し上げるか、承知でもせねばならぬような考えを起こし。甚だしきに至っては『ハイ』と返事をするばかりなどという、おかしいことを申し伝えている族もある。


 なるほど、弥陀と衆生と相談づくで、往生がきまるものならば。返事もいろうし、承知もせねばなるまいが。親が我が子を助けるに、我が子に相談をかける必要はあるまい。それと同時に、子供から返事をする必要もないわけである。然るに世間の人の中には、ややもすると、この六字の呼び声を、相談の文句と心得誤って。どう受けられた、どう承知した、参りましょうの、確かな返事ができるかと。受け心や承知のしぶりに骨を折り。何年聞いても安堵がならぬの、確かな思いになられぬのと。難儀しておる人のあるのは、誠に哀れかなしき間違いではあるまいか。


 皆様よ、心静かに考えて見てください。可愛い我が子がいま火の穴へ落ちるのに、親がその子を呼びかけて。子供が承知したから抱いてやる。子供が返事せぬから、火の穴へ墜とすのという親がこの近辺に一人でもありますか。もしそのような親があったなら、田舎におくは惜しい事です。早速亜米利加へでも送ってやり、サンフランシスコの大博覧会に出すべしだ。そうすれば、西洋の人々は、それこそ驚いて。何と珍しい親が、日本から出品せられたと。欧州諸国でも戦争を休んで見物に行くかもしれません。皆様よ、こんなたわけた味わいが、人間同士の親としても、露微塵あるべき訳はない筈じゃに。かりそめにも、大の字付きの御慈悲たる、大慈大悲の親様が、可愛い衆生を助けるという場合において。まず衆生を呼びかけて、その衆生の返事や、受け心を見てから助けるというような、狂態じみた味わいが。卯の毛の先でつくほども、あろう理屈はゆめゆめないことを私は絶叫して止まないわけであります。


 誠にここは一大事のところですから、よくよく吟味して下されませ。河に流れて、溺れて沈むその人を、救う舟から呼び掛けて、その溺れた人の、受け心や安堵のしぶりを、見てから助けるという舟ならば。助け舟ではありません。それこそ殺し舟と申さねばなりません。又小慈小悲の人間でも、自分より一段以下の、蝶や蜻蛉を助けるにも。その蝶や蜻蛉が、助け人に対する心地などは、助ける手段の上はともかくも。助けるという、主義精神の上には、いささかも関係はありますまい。私は座敷の障子に迷っておる蜻蛉を、何度も助けみましたが。私が助けようとすれば、蜻蛉はかえって私を恐れて逃げようとします。それを無理に捕らえたところが、蜻蛉は私に食いつきました。私は蜻蛉のこれ位の愚かなることは、素より見抜いてかかった仕事ですから。腹も立たねば嫌いもせず、自慢じゃないが見事助けおおせてやりました。又、人間以下の畜生としても、可愛い我が子を助けるに。我が子に相談の、返事の承知の受け心のと。助ける条件のあるべき訳は更にない。こんな話は幾つならべても同じこと。然るに、五十二段も違ってござる親様が、虫けらよりも比較にならぬ我々衆生を助けるに。呼んで衆生の返事を聞くの。振り向く思いを見届けるの。歓喜の思いはどうでもいるの……と。ああ勿体なくて涙が出ます。大悲の親を馬鹿にするにも程がある。こんな話は止めにしましょう。そんな心得は止めてください。


 しからば阿弥陀如来は、何がために我々を呼んで下さるるのじゃ。ここが肝要の聞きどころ、必ず聞き損じて下さるな。さぁこの呼んで下された、六字の訳を善導大師釈していわく。南無というは帰命なり「亦是返事聞かんがためなり」。そんな御釈がどこにある。亦是発願廻向之義じゃ。返事聞ことて呼ぶのじゃない、与えてやるとて成就したのが六字の回向。何を与えて下さるのじゃ、与える品は即是其行の御助け。承知さしょとて呼ぶのじゃない、助けたいとて立てた六字の呼び声じゃ。聞こえた六字が御助けの、名なり体なり親様なり。心に届いた御六字が、御助けの法であったかと。知れたまんまが世話いらず、承知も返事もあらばこそ、たのみちからとなるばかり。歓喜も報謝も称名も、六字一つのはたらきで、不足ない身になったのが、信決定の行者ゆえ。一流安心の信相は、この機に返事さするでない。届いた六字の相であるぞ、と知らせて下されたが、ただ今讚題の御文である。

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以名摂物録(松澤祐然述)「11 相談しても結果は不明」 - 安心問答(浄土真宗の信心について)
以名摂物録 - 国立国会図書館デジタルコレクション

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