※このエントリーは、「以名摂物録(松澤祐然述)」(著作権切れ)からのテキスト起こしです。
前回の続きです。
24 乗込んだが南無
引続いて御話しをさせて頂きますが、此度弘誓の舟に乗込むには、決して切符はいらぬということを前席に委(くわ)しく御話し申しましたが。
然らば信心がなくともよいのかと、疑いなさる御方もありましょうが。信心がなくては浄土参りは出来ません。信心がいるというならば、矢張切符がいるのであろうと後戻りなさる。困りたものじゃ。
一度信心を切符のようなものじゃと、思いこんだが病根で。切符がいらぬといえば、信心までいらぬかと驚き。信心がいるといえば、切符がいると妄想し。果しのつかぬ聴聞では、大事の未来を仕損じますぞ、心静かに聞いて下され。
浄土真宗のたのむ一念の信心というは、切符のような訳ではありません。丸の裸の此儘で、乗せてやるぞの弘誓の舟に。乗彼願力之道と、乗込んだ一念を信心というのです。
乗込んだものでなければ行かれる訳はないから、乗込む信心は必ずいります。乗ったが南無の二字、乗せたが阿弥陀仏の四字。客からいえば乗ったという、船からいえば乗せたという。
乗ったと乗せたと、言葉に左右はあるけれど、仕事が二つあるのでない、客が乗ったというは船が乗せたこと、船が乗せたというは客が乗ったこと、乗ったと乗せたは一つこと。そこで機法一体といわるるので、南無という二字は、客が船に乗ったこと。阿弥陀仏という四字は、乗った御客を船が乗せたこと。客が乗った相のそのままが、船がお客を乗せた相、船が御客を乗せた相の外に、客が船に乗った相はないゆえに。二字が即四字四字が即二字といわるるのじゃ。
子供が親に抱かれた相が南無の二字、親が子供を抱いた形ちが阿弥陀仏の四字。子供からいえば抱かれたという、親からいえば抱いたという。抱いたと抱かれたは機法一体で。
南無と衆生が弥陀をたのんだというは、阿弥陀仏が衆生を助けて下されたこと。阿弥陀仏が助けて下されたそのままが、衆生のたのまれた信相で。たのんでから助けて貰うのでもなく、助けて貰うてからたのむのでもない。たのんだとは、助かったこと、助かったが、たのまれた形ち。客が乗ってから、舟が乗せるのでもなく、舟が乗せてから、客が乗ったのでもない。乗ったまんまが乗せたのじゃ、乗せたまんまが乗ったのじゃ。
そこで当流のたのむ一念というは、親ならば抱かれた形ち、舟ならば乗込んだ相た。阿弥陀如来ならば、助けて頂いたことを、信の一念と申すのである。
さて皆様いよいよ御助けの舟の外に、信心という別の切符がいるのではなかったことが、明瞭に御得心が出来ましたか。
此度の弘誓の舟は、切符いらずの只ですよ、呂波じゃロハロハ。只で乗り込む舟であるから、皆様の内に、是さえあれば大丈夫と、要らぬ切符を握って御座る御方があったら。其切符を今日限り御捨なさい、サアサア早く御捨早く御捨。
誰も御捨なさらぬかね、成程永年かかりて、漸(やっ)とのことに握りつめた切符じゃもの。たとい不要として見ても、ソーは急に手離しは出来まいが。手離し出来ぬ切符なら、無理に離せとは申しませんが。切符を握りたばかりにして、船に乗り込んで下さらんでは大変じゃゆえ。今日は其切符を握りたままでも宜しいから。確かに船に乗り込んで仕もうて頂きたいのでありますが、皆様はいかがですか。
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以名摂物録(松澤祐然述)「25 乗せられたが他力」 - 安心問答(浄土真宗の信心について)
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