安心問答−浄土真宗の信心について−

浄土真宗の信心についての問答

以名摂物録(松澤祐然述)「12 名体不離」

※このエントリーは、「以名摂物録(松澤祐然述)」(著作権切れ)からのテキスト起こしです。

前回の続きです。

12 名体不離

 『踏迷ふ道あだならでほととぎす』。
 アダラ山路をふみ迷い、哀しや一夜を山家に宿りしおかげにて。都城(みやこ)などには容易に聞けぬ不如帰を、深く賞玩(しょうがん)させて貰った楽しみは。迷った道が却って幸いとなった、という今の句の意(こころ)であります。是は御互の一生にも、随分実例(ためし)のあることで。壮年の時失敗したのが、生涯の薬となって、老後は大に安楽に暮らさるることのある如く。今一大事の後生にとってもその通り。定散自力の奥山で、トント聴聞を踏違い。受けた心地を信心と思ったり、阿弥陀如来と相談して、コチラの返事で往生の、定まるように心得て。永々難儀して来たところへ、本願招喚の呼声の、手強い六字が聞えてみれば。今迄迷った聞きやうも、皆是獲信の縁となりますから。聞きあかすまでは大事をかけて、聞く気になりて頂きたい。


 さて此度は、其名号六字の御手柄を、充分に御話し申すに付いて。先づ差当り、西方浄土に御座(おざ)らせらるる御助けの人、即ち仏体と、今ここで聞かせて頂く御助けの法、即ち名号とが。いかなる関係を以て、御座るかということを、明了に聞いて頂きたいことであります。全体浄土真宗は、名号を聞いて弥陀をたのんで、そして西方の如来様から助けて貰うのではなく。西方浄土の如来様が、願も行も光明も寿命も。名号六字に成就して、是を衆生の心中に廻向して。この名号で抱いて助けて浄土まで、送り届けて下さるる。不捨の真言、稀有の勝法が南無阿弥陀仏の六字である。是を古来より、名体不離の御六字と申し伝えておりますが。此名体不離ということを、世間の人の中には、丸で文字のままに読んで仕まって。名と体と離れぬことが名体不離と心得て。名があれば体がある、体があれば名がある。名には体が離れず、体には名が離れぬ。是を名体不離というのじゃと、奇怪なる説明をしているものがありますが。是は意味に於ても、事実に取りても、更に無分別なる杜撰の話しと申さねばなりませぬ。


 然れば名体不離というは、いかなることであるかというに。是は阿弥陀如来に限る別徳でありまして。此味はいを御話しするに付いては、先づ暫く世間普通に於ける名体の関係から、説明してかからねば、とても解りませぬ。凡そ世間一般何物にかかわらず、名体不離というものは一物もないので。総ての物体(からだ)には元来名称(なまえ)というものは付いてないのである。若し物体に名称の付いてあるものならば、子供などの生れたときに、親が面倒して名称を付てくれる必要はありません。身体があっても名称がないものなればこそ、親が名称をつけてくれるのでありましょう。其処で何の為に名称をつけるかといえば。名詮自性といって、自性を呼詮(よびあら)わす為に名称をつけるので。名称を一々つけておかねば、どれが誰やら誰がどれやら混雑して、何んとも致し方はありませんから。


 姉はおゆき妹はおさとと、呼詮(よびあらわ)すことにきめておくまでのことで。恰かも商人が商品に一々符牒をつけておくも、同然の理屈であります。
 しかし名は称の義なれば、称名名号と申して、必ず呼び称ふる為の名称でありますから。名称をつけるには、是非共口で呼ばわりて見て、呼びよい名称をつけるというのが、尤も大切のことであります。殊に女子の如きは生涯実名を呼ばられておるのが、多分の習慣であるから、なるべく呼びよい名称をつけねばなりません。私の知っている御婦人にせすという名称の御方がありますが、此様な呼びにくい名称では、殆んど困ってしまいます。


 夫につけても有り難いは、我等が後生の親様の御名称(おなまえ)であります。さぁ皆様呼ばって御覧なさい「なむあみだぶなむあみだぶなむあみだぶ」。此様に呼びよい名称は、恐らくは世界中にありません。ここが大悲矜哀の深遠なるところにして。是で助ける名号が、若し呼びにくい名称であったなら、頂く我等は泣かねばならぬ。何卒凡夫に露微塵難儀をさせぬよう、五劫の間だ選択摂取したまいて。易行の至極を開顕し、かくもたやすい名号に、功徳有丈け成就して下されたとは。実に実に難有いことであります。もしも「せす」などという御名号(おなまえ)であったなら十遍も称ふるうちに、夫こそ舌が恐縮してしまふのであります。


 斯の如く、名号というものは、元来身体についてないものを、只呼詮はす為に、仮につけたまでのもので。是は人間ばかりではありません、万(よろづ)の物が皆此通りで、今此御堂の柱でも、虹梁でも、ワシははしらで御座ると、柱から名乗ったわけではない。実は柱でも何んでもないものに、是は柱、是は虹梁、と混雑せぬやう其品を呼詮はすに便利のために、一々名称をつけておくまでのことです。此故に性相の上よりいうときは、名は十四不相応の随一にして。即ち名は仮法である、実法と相応せぬものじゃ。

 
 つまり何物(なにもの)の名称でも虚仮(うそ)のもので、実際の品物とは違っているということ。御覧なさい此柱は、何処が「は」で何処が「し」ですか。「は」でも「し」でも「ら」でも何んでもないものを、柱々といっておるだけのことでしょう。この「はしら」という名称は、柱の実体には一向無関係のものであります。現在私の如きも松澤祐然と名けられてありますが、私の身体は、松でも澤でも何んでもない。是が名は不相応という証拠であります。此故に実際身体についてある目鼻や手足は、善くとも悪しくとも勝手に取替ることは出来ねども。名称は仮につけた虚仮(うそ)のものですから。都合に依つては何時でも改名も出来、又はいくつでも名称はつけておかるるものであります。

 斯の如く物体(からだ)と名称とはちょっと離れぬように見えますが、其実一向無関係のもので。おゆきとつけたから身体が凍るわけでもなし、おさとという女が甘いと限りたものでもない。随分辛い後家さんにおさとなんどと甘そうな名称のついた人もあります。


 次に名称と物体(からだ)は其性質上より考えても、全く別物でありまして。名は聲法(しょうほう)にして耳識所縁の境。体は色法にして眼識所縁の境。名は耳の相手、体は眼の相手、名は聞くべき品、体は見るべき品であります。
「オヤ好いお児さんじゃね目もと口もとお父様によく似ておいでること」
 夫は体を見ての話し、何程見ても名称は聞かねば解りません。
「何というお名称ですか」
 其処で手真似や足真似では名称は伝えられません、必ず口より声立(たて)て。
「三郎と申します」と耳に聞かせて戴くのが名称の本性であります。
 今阿弥陀如来の仏体も我等の眼にこそ見えねども、眼識所縁の境である。名号は耳識所縁の境にして、聞其名号と聞いて頂く品であるから。仏体と名号とは不離どころかや丸々別物であります。


 然らば何故に名体不離と申すかというに。其処はもう一つ聞いて頂かねばならぬことがあります。余り話しが長くなるので御気の毒じゃが、大事のところですから聞いて下さい。其訳は、眼に見ゆる物体(からだ)には、力用(はたらき)のあるものなれども。耳に聞ゆる名称には、何んの力用のない、ということが動かぬ理屈でありまして。

 権兵衛さんの身体なら、餅もつくが草も採る。ゴンベゴンベの名称を以ては、餅つく力用はありません。おさんどんの身体なら、鍋も洗うし味噌も摺る。オサンオサンの名称で味噌の摺れやう道理はない。是は浄土真宗で、かくきめたという話しでもなく、日本中で約束したことでもない。是が諸法実相の道理にして、宇宙間の真理でありますから、世界中此理屈にはずれるものは決してないのです。

 然るに阿弥陀如来の名号に限っては、此世界中の理屈にはずれて。光り輝く仏体の功徳力用と耳に聞ゆる名号六字の御利益とが、更にかわりのないところを、名体不離の別徳と崇め奉るところで。是を名号不思議とも、仏智不思議とも、義なきを義とすと信知せよとも、仰せらるる次第であります。


 何んと皆様方、実に不思議の六字ではありませんか。権兵衛どんの身体が餅をついたというならば、何んの不思議もなけれども。ゴンベゴンベの名称を以て、餅がつけたとしたならば、夫こそは不思議不思議といはねばなるまい。おさんどんの身体が味噌を摺るなら、当たり前のことなれども。オサンオサンの名称を以て味噌が摺れたというならば、実に前代未聞の不思議のことでありましょう。今阿弥陀如来の仏体が、此座へ御出下されて、落る我等を助けて下さることならば、左程の不思議と思はねども。南無阿弥陀仏の御六字で、聞ゆる信の一念に。助けて救って浄土まで、送り届けて下さるる。生きた仏も同様の、仕事をなさる御六字の。不思議が不思議としれて見りゃ、自力疑心の腰もぬけ、仏智の不思議をたのみいるより外はないことであります。

以名摂物録 - 国立国会図書館デジタルコレクション

以名摂物録

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