安心問答−浄土真宗の信心について−

浄土真宗の信心についての問答

「ご本願だけで機の深信に至ることができると思えないのですが、機の深信=自力無功に至る根拠をご本願のみからお示し頂ければよりわかりやすくなるかと思います。」(ごみっちさんのコメントより)

ごみっち 2014/08/12 23:59
ご本願だけで機の深信に至ることができると思えないのですが、機の深信=自力無功に至る根拠をご本願のみからお示し頂ければよりわかりやすくなるかと思います。

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20140812/1407835539#c1407855598

本願文でいえば「信楽」となります。ただ、前回までのエントリーにも書きましたが、二種深信とは真実信心を解説されたものであって、信楽=機の深信と単独でいうものではありません。

二種深信とは、善導大師が観無量寿経疏のなかで、「深心」について解説されたところが根拠となります。
それを親鸞聖人は、教行信証に引文されています。

〈二者深心〉。深心といふは、すなはちこれ深信の心なり。また二種あり。 一つには、決定して深く、自身は現にこれ罪悪生死の凡夫、曠劫よりこのかたつねに没し、つねに流転して、出離の縁あることなしと信ず。 二つには、決定して深く、かの阿弥陀仏の四十八願は衆生を摂受して、疑なく慮りなくかの願力に乗じて、さだめて往生を得と信ず。 (教行信証信巻末 浄土真宗聖典 (註釈版) 第ニ版

http://goo.gl/8rtpL8

上記の観無量寿経疏にあるように、観無量寿経の「深心」とは「深信(深く信ずる)」であるといわれて、その内容を解説されたのが、それ以下の「一つには」「二つには」という二種深信です。文章で書く説明上、「一つには」「二つには」とあるのでそれぞれ別のものでも、前後があるものではありません。


機の深信を自力無功、法の深信を他力全託と説明することがありますが、自力無功に疑い無いとは、他力全託したということです。言い換えると、他力全託となったのは、自力無功と知らされたということです。なぜなら、自力無功とは自らの力では生死を出ることができないということですから、それに疑い無いなら必ず救うの阿弥陀仏の仰せに従うより他ありません。また、「自力無功と思えない人」が他力全託しているということはあり得ません。


そこで、善導大師が観無量寿経疏で深心について説明された「深心釈」を、親鸞聖人は教行信証信巻で「信楽」の解説に引かれています。つまり、もともと観無量寿経の三心「深心」の解説を、本願文の「信楽」の解説に使われたのです。


ですから、二種深信について、本願文で示すと信楽ということになります。
そこで、その信楽について親鸞聖人は教行信証信巻に以下のように書かれています。

次に信楽といふは、すなはちこれ如来の満足大悲円融無碍の信心海なり。このゆゑに疑蓋間雑あることなし。ゆゑに信楽と名づく。すなはち利他回向の至心をもつて信楽の体とするなり。
しかるに無始よりこのかた、一切群生海、無明海に流転し、諸有輪に沈迷し、衆苦輪に繋縛せられて、清浄の信楽なし、法爾として真実の信楽なし。ここをもつて無上の功徳値遇しがたく、最勝の浄信獲得しがたし。一切凡小、一切時のうちに、貪愛の心つねによく善心を汚し、瞋憎の心つねによく法財を焼く。急作急修して頭燃を灸ふがごとくすれども、すべて雑毒雑修の善と名づく。
また虚仮諂偽の行と名づく。真実の業と名づけざるなり。この虚仮雑毒の善をもつて無量光明土に生ぜんと欲する、これかならず不可なり。
なにをもつてのゆゑに、まさしく如来、菩薩の行を行じたまひしとき、三業の所修、乃至一念一刹那も疑蓋雑はることなきによりてなり。この心はすなはち如来の大悲心なるがゆゑに、かならず報土の正定の因となる。如来、苦悩の群生海を悲憐して、無碍広大の浄信をもつて諸有海に回施したまへり。これを利他真実の信心と名づく。(教行信証信巻 浄土真宗聖典 (註釈版) 第ニ版
(現代語訳)
次に信楽というのは、阿弥陀仏の慈悲と智慧とが完全に成就し、すべての功徳が一つに融けあっている信心である。このようなわけであるから、疑いは少しもまじることがない。それで、これを信楽というのである。すなわち他力回向の至心を信楽の体とするのである。
ところで、はかり知れない昔から、すべての衆生はみな煩悩を離れることなく迷いの世界に輪廻し、多くの苦しみに縛られて、清らかな信楽がない。本来まことの信楽がないのである。このようなわけであるから、この上ない功徳に遇うことができず、すぐれた信心を得ることができないのである。
すべての愚かな凡夫は、いついかなる時も、貪りの心が常に善い心を汚し、怒りの心が常にその功徳を焼いてしまう。頭についた火を必死に払い消すように懸命に努め励んでも、それはすべて煩悩を離れずに修めた自力の善といい、嘘いつわりの行といって、真実の行とはいわないのである。この煩悩を離れないいつわりの自力の善で阿弥陀仏の浄土に生れることを願っても、決して生れることはできない。なぜかというと、阿弥陀仏が菩薩の行を修められたときに、その身・口・意の三業に修められた行はみな、ほんの一瞬の間に至るまで、どのような疑いの心もまじることがなかったからである。
この心、すなわち信楽は、阿弥陀仏の大いなる慈悲の心にほかならないから、必ず真実報土にいたる正因となるのである。如来が苦しみ悩む衆生を哀れんで、この上ない功徳をおさめた清らかな信を、迷いの世界に生きる衆生に広く施し与えられたのである。これを他力の真実の信心というのである。

http://goo.gl/1j14RQ

上記挙げたのは、親鸞聖人が信楽とはどういうものがらなのかと言われたものです。ここでは「すなはち利他回向の至心をもつて信楽の体とするなり」と言われています。これは阿弥陀仏が私を助けるために差し向けられる真実心のことです。その体は南無阿弥陀仏の名号です。


それ以下のご文は、なぜ阿弥陀仏がそのような信楽を誓われたのかということを書かれています。それは「この虚仮雑毒の善をもつて無量光明土に生ぜんと欲する、これかならず不可なり」だからです。そのため阿弥陀仏は「如来、菩薩の行を行じたまひしとき、三業の所修、乃至一念一刹那も疑蓋雑はることなきによりてなり。この心はすなはち如来の大悲心なるがゆゑに、かならず報土の正定の因となる」という信楽を誓われたのです。


これらのことは、私がどのような経路をたどって分かるかというものではありません。阿弥陀仏の五劫思惟の本願にすでに先取りされています。ですから、機の深信といっても法の深信と言っても「そこに至る」のではなく、すでに本願によって先取りされたそのいわれを聞くだけです。その本願のいわれを聞いたのが信心といいます。