安心問答−浄土真宗の信心について−

浄土真宗の信心についての問答

「なぜ一切世間甚難の法と言われるのでしょうか」(東京の名無しさんのコメントより)

東京の名無しさんよりコメントを頂きました。有難うございました。また、それについて複数の方からコメントを頂き有難うございました。

東京の名無し 2012/01/07 13:03
大聖易往と説きたもう浄土をうたがう衆生をば
無眼人とぞ名づけたる無耳人とぞ述べたもう

真実の信心は易往無人、難信易行と言われます。
ただ今の弥陀の救いに値うには、永久に流転する自己を知らねばなりません。
弥陀釈迦善知識の善巧方便に従い、三願転入の道を進ませて頂きましょう。

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20120107/1325879904#c1325909002

東京の名無し 2012/01/07 22:58
幹部会員歴数十年さんへ
では、なぜ人無しと言われるのでしょうか。
なぜ一切世間甚難の法と言われるのでしょうか。

長八さんへ
仏様の善巧方便が我々に分かるのかという指摘には、反省させられるところがあります。しかし、「ただ今の救い」だけを説いて「ただ今の救い」が分かるのならば、なぜ釈迦はイダイケ夫人に定散二善を勧めたのでしょうか。

逃げる訳ではないのですが、あんまり書き込むと上から怒られるような気がするので、もうこの辺で止めておきます。失礼しました。

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20120107/1325879904#c1325944733

これらについての根拠は、幹部会員歴数十年さんが出されていますので、そちらを読んで下さい。長八さん、nowhereさんからもコメントを頂き有難うございました。

無眼人、無耳人について、出ていないご文を紹介します。教行信証行巻に、安楽集を引文されているところです。

このゆゑにわれ説かく、“無量寿仏国は往き易く取り易くして、人、修行して往生することあたはず、かへつて九十五種の邪道に事ふ”と。われこの人を説きて眼なき人と名づく、耳なき人と名づく》〉と。経教すでにしかなり。なんぞ難を捨てて易行道によらざらん」と。{以上}(行文類_浄土真宗聖典(註釈版)P163)

http://goo.gl/WTTOJ

(現代語訳)
そこで、わたしは“無量寿仏の国は往生しやすくさとりやすいのに、人々は念仏の行を修めて往生するということができない。逆に、九十五種の外道に仕えている”と説くのである。わたしはこういう人を、真実を見る目がない人といい、真実を聞く耳がない人という»と仰せになった>と説かれている通りである。
 経典にはすでにこのように説かれている。どうして、難行道を捨てて易行道によらないのであろうか

http://goo.gl/pyRDr

東京の名無しさんの意見で一貫しているのは、「信心獲得は難しい。難しいから時間がかかる」ということです。末代の凡夫である私にとっては、定散二善をしなければ助からないという意見は間違いなく「難」です。南無阿弥陀仏一つでただ今救うと言われる阿弥陀仏の第十八願は、「易行道」です。コメント欄にもたくさんのご文が挙げられていますが、「経教すでにしかなり。なんぞ難を捨てて易行道によらざらん」と親鸞聖人が仰っていることを、自分に向けて仰ったことだと思って読んで下さい。


親鸞会教義によって、本来の浄土真宗の教えを聞いても信じられない人は、まさに「無量寿仏国は往き易く取り易くして、人、修行して往生することあたはず、かへつて九十五種の邪道に事ふ」と表現されている人です。親鸞会教義で言う「定散二善をしなければ助からない」は、このご文の「九十五種の邪道」です。

また、難信については、自力の心を持ったままでは絶対に他力の信とはならない、また、疑情をもったままでは、絶対に浄土往生できないという意味です。
難と易については、愚禿鈔に以下のようにあります。

難易に二とは、
一には難は疑情なり。    二には易は信心なり。(愚禿鈔上巻・浄土真宗聖典(註釈版)P504)

http://goo.gl/Ln9uu

また、愚禿鈔下巻には、

難易対
難とは三業修善不真実の心なり、
易とは如来願力回向の心なり(愚禿鈔下巻・浄土真宗聖典(註釈版)P539)

http://goo.gl/wEjUL

とあります。

これらの意味から、疑情、三業修善不真実の心を持っては浄土往生ができないことを「難」といわれ、信心・如来願力回向の心で浄土往生することを「易」と言われています。

そのことを仰った教行信証のお言葉を紹介します。

しかるに常没の凡愚、流転の群生、無上妙果の成じがたきにあらず、真実の信楽まことに獲ること難し。なにをもつてのゆゑに、いまし如来の加威力によるがゆゑなり、博く大悲広慧の力によるがゆゑなり。(教行信証信巻・浄土真宗聖典(註釈版)P211)

http://goo.gl/yz0jj

このご文を、親鸞会では前半のみ出して「信心を獲得すれば浄土往生はたやすいが、信楽をうることが難しいのだ」と強調して、信楽をうることがいかに難しいかの話をします。しかし、それは、その直後の「なにをもつてのゆゑに、いまし如来の加威力によるがゆゑなり」を全く無視している説明です。
なぜ「真実の信楽まことに獲ること難し」かについて、「如来の加威力によるがゆえ」と説明されています。「疑情・三業修善不真実の心」をどれだけひねっても、真実の信楽にはならない、阿弥陀如来のお力によらねば絶対に信楽とはならないという意味です。

上記のご文と対照するとよくわかるのが、以下の化土巻のご文です。

大信心は希有・最勝・真妙・清浄なり。なにをもつてのゆゑに、大信心海ははなはだもつて入りがたし、仏力より発起するがゆゑに。真実の楽邦はなはだもつて往き易し、願力によりてすなはち生ずるがゆゑなり。(教行信証化土巻・本・浄土真宗聖典(註釈版)P399)

http://goo.gl/Y1RSu

ここでは「大信心海ははなはだもつて入りがたし、仏力より発起するがゆゑ」と言われています。「自分で疑情をなんとかしよう」、「定散二善を実行して、親鸞会的三願転入の道を進もう」では、確かに難しい信心です。例えれば「親鸞会で言うとおりの道を通って」信心決定するのは、箱根駅伝往路5区で東洋大学柏原選手に勝つよりも更に難しいです。難しいと言うより絶対にできません。しかし、「仏力より発起する」他力廻向の信心は、「大信海ははなはだもつて入りがたし」です。

そのため自力を捨てよと厳しく戒められ、本願力回向の信心を勧められたのが親鸞聖人です。ただ今救うとよびかけられる南無阿弥陀仏を、ただ今聞いて救われて下さい。