安心問答−浄土真宗の信心について−

浄土真宗の信心についての問答

「(二種深信は)前後起があります。理由は、ご本願のみで機の深信に至ることは不可能であると思っているからです。」(ごみっちさんのコメント)について

前回のエントリー(二種深信が「前後関係がある(前後起)」と考えてしまう理由を考える。 - 安心問答(浄土真宗の信心について)にコメントを頂きました。

ごみっち 2014/08/12 07:13
以下、2014-08-09 に掲載致しました2014/08/12 01:59 のコメントに同じです。

私は二種深信を例えると、
機の深信は下段、法の深信は上段、
のように思っています。

http://shopping.dmkt-sp.jp/images/item/001/4982/4978645504282_large.jpg
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機の深信の下段が前(先)で
法の深信の上段が後にのっかります。     
      
下段と上段が揃ったところが信心決定です。ゆえに、前後起があります。

理由は、ご本願のみで機の深信に至ることは不可能であると思っているからです。

※注意 
実際に上下段になっているわけではなく、あくまで例えです。あしからずご了承下さい。

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20140811/1407784721#c1407795213

真実信心の相をあらわされたのが二種深信ですから、やはり前後はありません。
真実信心といっても、その内容は以下のご文にある通りです。

しかるに『経』(大経・下)に「聞」といふは、衆生、仏願の生起本末を聞きて疑心あることなし、これを聞といふなり。「信心」といふは、すなはち本願力回向の信心なり。(教行信証信巻末 浄土真宗聖典 (註釈版) 第ニ版

http://goo.gl/LhYmxu

南無阿弥陀仏の謂れを聞いて疑い無いのが、信心ですから、一部に疑い晴れてその後残りに疑い晴れるということはありません。

また、「機の深信に至る」と言われていますが、自らそこに至るというものではありません。南無阿弥陀仏は、阿弥陀仏の本願力が実際に働いているお姿であり、直ちに来れの喚び声です。本願力から回向される信心であって、私の方から至る信心ではありません。


前回のエントリーにも書きましたが、南無阿弥陀仏が私が助かる道である(行)と聞き入れたのが「信」です。機の深信から法の深信へというような前後はありません。