安心問答−浄土真宗の信心について−

浄土真宗の信心についての問答

「阿弥陀仏は声の仏になられた」ということの根拠について(れんさんのコメントより)

れんさんよりコメントを頂きました。有り難うございました。

れん 2013/05/26 17:35
以前のエントリーにありました「阿弥陀仏は声の仏になられた」ということの根拠ですが、
仏説無量寿経(上巻)重誓偈の「名声超十方」がそれに当たると思います。
親鸞聖人が正信念仏偈に「重誓名声聞十方」と書かれた所です。
このような理解でよろしいでしょうか?

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20130523/1369251159#c1369557348

阿弥陀仏は声の仏になられたの根拠については、コメントに書かれているものでいいと思います。

阿弥陀仏は、私を救うためにその仏の覚りの徳の全てを名号におさめてさし向けてくださいます。
そのことを、親鸞聖人は教行信証行巻に、以下の文を引文されています。

いはんやわが弥陀は名をもつて物を接したまふ。ここをもつて、耳に聞き口に誦するに、無辺の聖徳、識心に攬入す。(教行信証行巻より_浄土真宗聖典―註釈版P180)

http://goo.gl/ogtwJ


別の言い方をすると、南無阿弥陀仏という名号の内容には、そのまま仏の徳が収まっているということは他のところでもいろいろと説かれています。

舎利弗、かの仏の光明無量にして、十方の国を照らすに障碍するところなし。このゆゑに号して阿弥陀とす。また舎利弗、かの仏の寿命およびその人民〔の寿命〕も無量無辺阿僧祇劫なり。ゆゑに阿弥陀と名づく。(阿弥陀経)

http://goo.gl/RblRq

光明無量であり、寿命無量であるから阿弥陀と号するのだと説かれています。名号には、そのまま光明無量、寿命無量の徳が現されているということです。


親鸞聖人は、また行巻に以下のように言われています。

いかにいはんや十方群生海、この行信に帰命すれば摂取して捨てたまはず。ゆゑに阿弥陀仏と名づけたてまつると。(教行信証行巻)

http://goo.gl/OPA5q

阿弥陀仏の徳の全てが南無阿弥陀仏となられているので、この南無阿弥陀仏に帰命する全ての人を、阿弥陀仏は摂取して捨てられません。そのため阿弥陀仏と名づけられています。


その南無阿弥陀仏を疑い無く聞いたのが信心ですが、信心といっても名号を信ずるとも阿弥陀仏を信ずるといっても、その体は別々のものではありません。「声になられた仏」といっても「名号」といっても、「阿弥陀仏」といっても別々のものではありませんので、これを名体不二といいます。