安心問答−浄土真宗の信心について−

浄土真宗の信心についての問答

「私が知りたいのは、全く浄土真宗、浄土宗に縁がなく、それでいて阿弥陀仏の救いにあった人は、それを何と表現するのだろうということです。」(ななしビックさんのコメント)

ななしビック 2014/08/05 00:01
本願招喚の勅命とは、何か。
「ただ今助ける」の仰せを、本願力によって聞いて とはどういうことか。
ここが私にはわかりません。
本願を聞くとか南無阿弥陀仏のいわれを聞くとかいうようにも表現されるようです。
私が知りたいのは、全く浄土真宗、浄土宗に縁がなく、それでいて阿弥陀仏の救いにあった人は、それを何と表現するのだろうということです。
教えを聞いたことがあり、阿弥陀仏の救いにあった人は、「本願」「浄土」「往生」「阿弥陀仏」「南無阿弥陀仏」「名号」「聞いて」などのキーワードで表現されると思いますが、これらの言葉には各人の先入観や思い入れなどが付随し、却ってわかりにくいように思います。
どんな言葉を使おうとも先入観や思い入れは排除できないと言われればそれまでですが、浄土があるとも思えないし、阿弥陀仏が居られるとも思えない私なので、それに類する言葉で表現されても全く理解できないのです。
あと、ご回答の最後の方で永遠のいのちという言葉が使われていますが、これは何を根拠にしておられるのでしょうか。経験でしょうか。教えでしょうか。それともどちらでもない信心とやらでしょうか。
流転輪廻から出離したら涅槃であり永遠のいのちとは違うように思われますが、一般的な概念としての永遠のいのちとは全く違うものでしょうか。
質問としてわかりにくかったらまた推敲して投稿したいと思います。

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20140804/1407143072#c1407164506

最初に申し上げますと「全く浄土真宗、浄土宗に縁がなく、それでいて阿弥陀仏の救いにあった人」というのは、浄土真宗の教義ではちょっと考えられないことです。もちろん、縁がないというのは極端なことを言えば、インターネットもない時代に、南無阿弥陀仏の「な」も聞くことなく一生を過ごす人には「阿弥陀仏の救い」はないと言ってもいいと思います。もちろん、阿弥陀仏がその人を助けようと働き掛けられておられることは間違いありませんが、それを伝える「教」にあわねば本願を聞くことも有りません。


その「教」とは、お釈迦さまが説かれた「大無量寿経」であり「仏願の生起本末」であり「南無阿弥陀仏のいわれ」です。教えに明らかにされた南無阿弥陀仏のいわれを聞いて疑いないことを、浄土真宗での信心といいます。
ですから、浄土真宗でいう「阿弥陀仏の救いにあった」ということを、「阿弥陀仏」「南無阿弥陀仏」を抜きに説明するということは難しいです。それを説明しようとすると「こんな気持ちになりました」という話になります。しかし、それは「阿弥陀仏の救い」ではなく「救われた人の味わい」と言ったものです。仮にその「味わいの言葉の一部」を取り上げたとしても、それは阿弥陀仏の救いそのものではないですから、聞いた人に誤解を与えてしまいます。それこそ各人の思い入れそのものの言葉だからです。


阿弥陀仏がおられるとは思えないとのことですが、私の方からそれを証明することはできないので、経典などによるしか有りません。親鸞聖人の教行信証も経典とその他の高僧方の解説を引いて浄土真実をあきらかにされています。阿弥陀仏や浄土というものは、教えによらねば分かりません。


お訊ねの「永遠のいのち」と書いたのは、教えによるものです。阿弥陀仏に救われた人は浄土往生し、阿弥陀仏と同じ仏となります。その阿弥陀仏とは光明無量、寿命無量の仏です。

つつしんで真仏土を案ずれば、仏はすなはちこれ不可思議光如来なり、土はまたこれ無量光明土なり。しかればすなはち大悲の誓願に酬報するがゆゑに、真の報仏土といふなり。すでにして願います、すなはち光明・寿命の願(第十二・十三願)これなり。(教行信証真仏土巻 浄土真宗聖典 (註釈版) 第ニ版
(現代語訳)
つつしんで、真実の仏と浄土をうかがうと、仏は思いはかることのできない光明の如来であり、浄土はまた限りない光明の世界である。すなわち、それは法蔵菩薩のおこされた大いなる慈悲の誓願の果報として成就されたものであるから、真実の報仏・報土というのである。その誓願とは、すなわち光明無量の願(第十二願)と寿命無量の願(第十三願)である。

http://goo.gl/J6wNxg

上記の「寿命無量の願(第十三願)」より、阿弥陀仏はいのちに限りのない仏ということになります。

阿弥陀仏の救いとは、涅槃に常住するようなものでは有りません。

つつしんで浄土真宗を案ずるに、二種の回向あり。一つには往相、二つには還相なり。(教行信証教巻)

http://goo.gl/wE6Dd8

阿弥陀仏から、往相と還相の二つを与えて頂いて、その通りに浄土に往生し仏となり、衆生済度に活躍をするというものです。涅槃に入って完成して、それで終わりというものでは有りません。全ての人をすくうまで、いつまでも動き続けるお働きが阿弥陀仏の本願力回向の働きです。そのお働き通りにいつまでも動き続けるのが阿弥陀仏に救われたということです。

一般的な概念としての永遠の命と違うのかというお訊ねについてですが、SFや漫画に出てくるものとは違います。例えば、手塚治虫の「火の鳥」にも永遠の命を手に入れた人物が何人か出てきますが、それを手に入れて何をするかということは描かれていません。「永遠の命」は何のためにあるのかということについて、「全ての人を救う為だ」とその意味を示して下さるのは阿弥陀仏の本願です。