安心問答−浄土真宗の信心について−

浄土真宗の信心についての問答

「南無阿弥陀仏と称え聞けよ」とは、大無量寿経のご文ではどこにあたるのでしょうか。(Peing質問箱より)

anjinmondou.hatenablog.jp
に関して、質問を頂きました。

質問箱より

Peing質問箱には、以下のように書きました。

称えよについては、第十八願の「乃至十念」聞けよに関しては、十八願成就文の「聞其名号」と「其仏本願力 聞名欲往生 皆悉到彼国 自致不退転」がそれに当たると思います。

これに加えて書きます。

最初に書きますが、「南無阿弥陀仏と称えよ」(称南無阿弥陀仏)というご文は、大無量寿経には書かれていません。質問箱に書いた「十念」も、元々は「念ずる」の意味であって、「声に出して称える」ことではありませんでした。

しかし、この「十念」の「念」は「声に出して称える」であるとされたのは善導大師です。その教えを受けて法然聖人、親鸞聖人はそのように読まれました。

このように、大無量寿経だけではありませんが、お経というのはそれ単独で読む限りはいろいろな読み方をすることが可能です。学者でもない人からすれば、可能というよりは読んでも分からないことが多いです。

そこで、浄土真宗では親鸞聖人が読み方に従って読んでいきます。質問箱に書いたご文については、親鸞聖人は尊号真像銘文に書かれています。

「南無阿弥陀仏と称え聞けよ」の「称え」について

「乃至十念」と申すは、如来のちかひの名号をとなへんことをすすめたまふに、遍数の定まりなきほどをあらはし、時節を定めざることを衆生にしらせんとおぼしめして、乃至のみことを十念のみなにそへて誓ひたまへるなり。(尊号真像銘文 - WikiArc・浄土真宗聖典註釈版P644)

「如来のちかひの名号」とは、南無阿弥陀仏のことです。
ですから「名号をとなへんことをすすめたまふ」というのが、南無阿弥陀仏を称えよと勧めておられることを示されています。その南無阿弥陀仏と称えることについて、回数や時間を定めないことを示すために「乃至十念」とされているのだと書かれいます。

「聞けよ」について

第十八願で、阿弥陀仏は「本願を信じよ」と願われています。
そのことを、先の尊号真像銘文の前の箇所ではこう書かれいます。

この「至心信楽」は、すなはち十方の衆生をして、わが真実なる誓願を信楽すべしとすすめたまへる御ちかひの至心信楽なり、凡夫自力のこころにはあらず。(尊号真像銘文 - WikiArc・浄土真宗聖典註釈版P643)

「わが真実なる誓願を信楽すべし」と勧められています。ここが「本願を信じなさい」と勧められているところです。ただ、ここで「凡夫自力のこころにはあらず」とありますので、私の心をそのように変えていった結果のことではありません。


そこで、「信」とは、「名を聞く」ことであると親鸞聖人は教えられます。
大無量寿経の「其仏本願力 聞名欲往生 皆悉到彼国 自致不退転(仏説 無量寿経 (巻下) - WikiArc・浄土真宗聖典註釈版P46)*1」について、同じく尊号真像銘文に以下のように書かれています。

「其仏本願力」といふは、弥陀の本願力と申すなり。「聞名欲往生」といふは、「聞」といふは如来のちかひの御なを信ずと申すなり、「欲往生」といふは安楽浄刹に生れんとおもへとなり。「皆悉到彼国」といふは、御ちかひのみなを信じて生れんとおもふ人は、みなもれずかの浄土に到ると申す御ことなり。(尊号真像銘文 - WikiArc・浄土真宗聖典註釈版P645)

「聞」といふは如来のちかひの御なを信ずと申すなり」と書かれています。
南無阿弥陀仏と聞くとは、南無阿弥陀仏を信ずることであると言われています。


ですから、信じよと勧められるのは、そのまま聞けよということになります。

「聞けよ」は「称えよ」と離れない

そこで、「名を聞け」という「南無阿弥陀仏」は、「本願招喚の勅命」とも言われますが、どこか特定の場所で選挙カーのように名前を連呼されているのではありません。
私に喚びかけ、呼び覚ますように働かれる働きは、私が称えられるような形、聞けるような形になって現れて下さっています。それが今の南無阿弥陀仏です。

ですから、南無阿弥陀仏と称えるままが、聞いているというのが南無阿弥陀仏です。
「南無阿弥陀仏と称え聞いて浄土に生まれて下さい」と願われた本願を聞いて疑いないのが信心といいます。


阿弥陀仏によばれるのを待つ必要はありません。南無阿弥陀仏と称える時も称えていない時も常に私を救うという阿弥陀仏の声が南無阿弥陀仏です。

*1:その仏の本願力、名を聞きて往生せんと欲へば、みなことごとくかの国に到りて、おのづから不退転に致る。