安心問答−浄土真宗の信心について−

浄土真宗の信心についての問答

「阿弥陀仏の救いにあう人には、生死やこの世界という虚構がどうなるのでしょうか。虚構が消えてなくなるのでしょうか」(ななしビッグさんのコメントより)

ななしビック 2014/08/04 09:21
(略)
さて、阿弥陀仏の救いにあう人には、生死やこの世界という虚構がどうなるのでしょうか。
虚構が消えてなくなるのでしょうか。
それとも虚構が虚構と知らされて、「いのち終わるとき、虚構も消えるだろう」という心境になるのでしょうか。
それともそれ以外の適切な説明があるのでしょうか。
あと、虚構が消えないうちは、罪悪は悪果をまねくものとして問題になりそうですが(罪悪に実体がないとしても)、いかがでしょうか。
阿弥陀仏の本願まことだった、という方(のblog)は近頃多いようですが、閲覧者に「弥陀の救いとはそのようなものか!」と思わせて下さるものがなかなか見当たらず、もやもやしております。

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20140731/1406797526#c1407111690

阿弥陀仏に救われるとは、さとりをひらく事では有りません。よって、さとりを開いた人ならばこうなるということは基本的に念仏者には有りません。

ななしビックさんのコメントで書かれた「虚構が消えてなくなる」ということは有りません。


浄土真宗で真実というのは、阿弥陀仏の本願であり、南無阿弥陀仏であり、浄土のことを指していいます。いずれも本当はさとりを開かない人にはまったく分からないものです。そのため、さとりを開いていない凡夫は生死もなにも分からずに生きています。またそれによって生死を繰り返しているのが私の姿です。その生死に迷っている私に向かってよびかけられる言葉が南無阿弥陀仏です。その南無阿弥陀仏は、「本願招喚の勅命」と親鸞聖人は仰有います。「ただ今助ける」の仰せを、本願力によって聞いて疑い無くなったことを「阿弥陀仏に救われた」と言っております。


しかし、それは「本願招喚の勅命を聞いた」のであって「さとった」のでは有りません。そのため、

それとも虚構が虚構と知らされて、「いのち終わるとき、虚構も消えるだろう」という心境になるのでしょうか。

というのとは違います。「虚構も消えるだろう」とは分かりませんが、「阿弥陀仏の仰せの通りになるだろう」とは思います。なぜなら、そのように仰有っているのがこの南無阿弥陀仏だからです。

あと、虚構が消えないうちは、罪悪は悪果をまねくものとして問題になりそうですが(罪悪に実体がないとしても)、いかがでしょうか。

これについては、御一代記聞書に関連したご文があるので紹介します。

一 順誓申しあげられ候ふ。一念発起のところにて、罪みな消滅して正定聚不退の位に定まると、御文にあそばされたり。しかるに罪はいのちのあるあ ひだ、罪もあるべしと仰せ候ふ。御文と別にきこえまうし候ふやと、申しあげ候ふとき、仰せに、一念のところにて罪みな消えてとあるは、一念の信力にて往生定まるときは、罪はさはりともならず、されば無き分なり。命の娑婆にあらんかぎりは、罪は尽きざるなり。順誓は、はや悟りて罪はなきかや。聖教には「一念のところにて罪消えて」とあるなりと仰せられ候ふ。罪のあるなしの沙汰をせんよりは、信心を取りたるか取らざるかの沙汰をいくたびもいくたびもよし。罪消えて御たすけあらんとも、罪消えずして御たすけあるべしとも、弥陀の御はからひなり、われとしてはからふべからず。ただ信心肝要なり と、くれぐれ仰せられ候ふなり。 (御一代記聞書35 浄土真宗聖典 (註釈版) 第ニ版) 
(現代語訳)
 順誓が蓮如上人に、「信心がおこったそのとき、罪がすべて消えて往生成仏すべき身に定まると、上人は御文章にお示しになっておられます。
けれども、ただいま上人は、命のある限り罪はなくならないと仰せになりました。
御文章のお示しとは違うように聞こえますが、どのように受けとめたらよいのでしょうか」と申しあげました。

すると上人は、「信心がおこったそのとき、罪がすべてみな消えるというのは、信心の力によって、往生が定まったときには罪があっても往生のさまたげとならないのであり、だから、罪はないのと同じだという意味である。
しかし、この世に命のある限り、罪は尽きない。
順誓は、すでにさとりを開いて罪というものはないのか。
そんなことはないだろう。
こういうわけだから、お聖教には、<信心がおこったそのとき、罪が消える>とあるのである」とお答えになりました。

そして、「罪があるかないかを論じるよりは、信心を得ているか得ていないかを何度でも問題にするがよい。
罪が消えてお救いくださるのであろうとも、罪が消えないままでお救いくださのであろうとも、それは弥陀のおはからいであって、わたしたちが思いはからうべきことではない。
ただ信心をいただくことこそが大切なのである」と、繰り返し繰り返し仰せになりました。

http://goo.gl/D81OTB

この御一代記聞書にあるように、罪については阿弥陀仏に救われても「命の娑婆にあらんかぎりは、罪は尽きざるなり」です。生きている間はそれによっていろいろな結果が目の前に起きてきます。ただ、それによって浄土往生ができなくなるということは有りません。


それについては上記の御一代記聞書では「一念の信力にて往生定まるときは、罪はさはりともならず、されば無き分なり」と言われています。さとりを開いていない凡夫にとっては罪はあるものです。ただ、阿弥陀仏の仰せが確かとなれば、それが往生できないのではと心配のタネにはなりません。


阿弥陀仏の本願が本当だったというのは、阿弥陀仏の仰せによらないと言えないことです。また、南無阿弥陀仏が真実であるということは、本願力によって知らされるものですが、より真実だと知らされるのは救われてから時間が経つほど知らされるものです。生きているということは、浄土に向かっていることなのであり、死ぬということは浄土に生まれて仏となり、また衆生済度をするのだと、私の生死に意味を与えられるのが、本願力の救いということです。この世で完成して終わりという救いでも、死んだらそこで終わりというものでも有りません。永遠のいのちが本願によって意味付けをされるのが、救われた結果です。