安心問答−浄土真宗の信心について−

浄土真宗の信心についての問答

私の口から称える南無阿弥陀仏、心で念ずる南無阿弥陀仏、これが、まさに生きた弥陀仏の証しと言われても、そうなんだろうなとは思いますが、心は晴ればれとしません。いつまでたってもこのような代わり映えしない心のままです。信前信後、実は、なにも変わらないのであれば、聞くも聞かぬも、一緒なのかなと。(笑顔タイムさんのコメント)

笑顔タイムさんよりコメントを頂きました。有り難うございました。

笑顔タイム 2014/06/26 02:10
仏教で言う、いわゆる迷いって何なんですかね。
家族が最期、痴呆や介護、死に別れで淋しい思いするのって何とかならないんでしょうかね。
皆が、楽に信心決定して、仲良く弥陀の元へってならないんでしょうかね。
信心の有無なども、実は、どうでもいいことなんですかね。
やっぱり真実信と言われるものが立ってないと、人生、どんな状態であってもアウトなんですかね。
よく、わかりません、智慧がなさすぎて。
悲しみとか、淋しさとか、怖れとか、不安とか、なんでこんな感情のようなものがあるんでしょうかね。
肉体にしてもそうですが、心の痛みとかもなくならないものなんでしょうか。
人生の意味が、考えれば考えるほどわかりません。
私の口から称える南無阿弥陀仏、心で念ずる南無阿弥陀仏、これが、まさに生きた弥陀仏の証しと言われても、そうなんだろうなとは思いますが、心は晴ればれとしません。
いつまでたってもこのような代わり映えしない心のままです。
信前信後、実は、なにも変わらないのであれば、聞くも聞かぬも、一緒なのかなと。
仏縁ある人は聞かれたらいいでしょうけど、無さそうな人は、それはそういう人生もまた良しと諦観するのは誤りですか。
信心決定しないと、人生、やっぱり不幸なのでしょうか。

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20140625/1403686823#c1403716221

迷いとはなにかについて、浄土真宗辞典から引用するとこう書いてありました。

めいご 迷悟
迷いとさとりのこと。煩悩にけがされて真理に暗いことを迷といい、迷いから目覚めてさとりを開くことを悟という。(浄土真宗辞典

迷いとは真理に暗いことです。浄土真宗でいえば、南無阿弥陀仏に暗いことです。
笑顔タイムさんのコメントの文面から、いろいろ実生活上で苦しみや、生きづらさを感じておられるのだろうと思います。また、そこから南無阿弥陀仏とは、浄土往生とは、信心とはといろいろ思いを巡らせておられることと思います。


私もかつて所属していた団体に入った動機も、また続けているときに感じていたことも程度の差はあっても痛みは同じものなのだろうと思います。


以前の私の心境について少し書きます。私も、信心決定さえしたらこの現状ががらっと変わるのかなとなんとなく思いながら、かつて所属した団体で講師をしていました。しかし、現在はそのような考えかたは間違っていたとわかりました。


どの点で間違っていたのかというと、4つあります。

  1. 私の要請に応じて阿弥陀仏が救ってくださるのではない。
  2. 阿弥陀仏の願いによって、救われたと言うことがある。
  3. それまで私がこれが苦しみだと思っていたあらゆるものは、阿弥陀仏からご覧になれば本質的なものではなかった。
  4. 阿弥陀仏の救いは、現状の周囲の状況を変化させるのではなく、私に直接働いてくださるもの。


このブログでは、信心決定しても何も変わらないと何度も書いてきました。確かに、周囲の環境が一変することはありませんし、私自身の煩悩が減ったということもありません。


しかし、大きく変わることはあります。それは、阿弥陀仏と私の関係が変わります。言い換えれば、南無阿弥陀仏と私の関係とも言えますし、本願と私の関係とも言えます。


それまでは、南無阿弥陀仏と私の関係は、いわば「疑心」を挟んだ関係でしかありません。身も蓋もない言い方をすれば「で?阿弥陀仏の本願とは私になにをしてくれるのかね?」と言ったものです。それは、言葉を変えると阿弥陀仏に「私を愛して欲しい」と言っている状態です。


その「愛」について、人間世界で最も純粋なのは赤子が親に対して「自分を愛して欲しい」の感情だと言われます。また世の中には「愛が全てさ」と歌う人もいます。それだけ「愛」が不足しているし、愛が欲しいのが人間だということができます。そして「自分を愛して欲しい」と思うように「自分を愛してくれる人」を探します。


今考えると、私は阿弥陀仏に「自分を見て欲しい、自分を愛して欲しい」と願っていたのだと思います。もし、その願いが叶ったのが信心だとすれば、自分も世界も変わったといえるかもしれません。しかし、阿弥陀仏の本願はそういうものではありませんでした。


阿弥陀仏は、私に愛を与えて安心させると誓われてはいません。浄土往生をさせるという本願を建てられました。これは、私が願っていることとは違います。しかし、仏願の生起本末から聞けばまことにありがたいことです。


以前の「で?阿弥陀仏は私に何をしてくれるの?」という思いは全くの自己中心的考えであったと否定されます。

コメントの最後に

信心決定しないと、人生、やっぱり不幸なのでしょうか。

とありましたが、それについて書きます。

不幸とは何でしょうか?自分の思い通りにならないことでしょうか?自分を安心させてくれる存在がいないことでしょうか?


不幸=愛がない(自分を安心させてくれる存在がいない) とするなら、信心決定=愛のある人生(自分を安心させてくれる存在がいる)ではありません。


しかし、私の求めるより先に、私が考えもしないお救いを用意して下さった阿弥陀仏の本願については、お礼とか、感謝とはまた違う有り難い気持ち以外にはありません。その上での人生は愛のある人生とは違いますが、大変有り難いものです。幸福=愛のある人生という意味では、阿弥陀仏の救いは私を「幸福」にはしてくれません。しかし、「幸福」とは違う、浄土往生を定めてくださった人生となります。


もうひとつ、笑顔タイムさんからコメントを頂いておりますが、また明日書きます。また、今回のエントリーについて思われるとこがあればコメントをお願いいたします。YGMさんコメント有り難うございました。

笑顔タイムさんへのコメント

YGM 2014/06/26 09:40
>家族が最期、痴呆や介護、死に別れで淋しい思い
>悲しみとか、淋しさとか、怖れとか、不安とか・・・
ときには楽しいこともありますが、こういった感情を繰り返しながら、これまで流転してきて、
来世からもきっと同様のことを繰り返しながら流転していくはずで、
これが仏教でいういわゆる迷いです。
私はそれが不幸だと思いまして、弥陀をたのみました。
なかには成功した人生もあるでしょうし、喜怒哀楽を繰り返す人生を楽しんでいる人もあるかもしれませんが、自分はどう思うかだと思います。
現在は相当傷心なさっているとお察しします。


id:yamamoya 2014/06/26 17:47
笑顔タイムさん
コメントを頂きありがとうございました。書かれている内容が多岐にわたるので、きちんとお答えしたいと思います。当方の事情で、本日中は書ききれませんでした。
明日中にエントリーとして書きますのでしばらく時間をください。よろしくお願いいたします。


笑顔タイム 2014/06/27 00:27
コメントいただき、ありがとうございます。
yamamoyamaさん、YGMさんの心の内は、どんな感じですか?ひらたい言葉で言うならば。
私は、自分が救われたなら、こんな感じになるのかなぁと想像しています。(このような想像をめぐらすことは、あまり意味のあることでは、ありませんが)
「今 生、救われてよかった。また、迷いの世界をさまようところだった。あぁ良かった、危ないところだった。救われない人が、ほとんどのこの世の中で、自分は、 なんとか助かった。ひとまず、やれやれだ。後は、自分の家族や縁のあった方々が一人でも多く、同じ身になってくださればいいんだけど。ただ、いかんせん、 凡夫の自分がどうしてあげることもできないしなぁ。阿弥陀さままかせだ」


YGM 2014/06/27 09:19
笑顔タイムさん
『自分が救われた・助かった』ということをどのように感じているのかとお思いでしょうが、
まず、違っていたのは、自分がたすかる教えだと思っていたことです。
他力で自分がたすかるようになるのではありません。助けられる教えだったのです。

もう一つは、「自分が」どうなるのか、「自分が」こうなるのかと、「自分」ばかりに目がついていましたが、いまは阿弥陀仏のお救いに目がついて、自分がどう だこうだというのは二の次になりした。だから、自分は助かってほかの人は助かってないとか、そういう感情は私には湧きません。

最後に「阿 弥陀さままかせだ」と書いてみえますが、「(自分が)阿弥陀様にまかせた」とお思いではありませんか?そうではなく、阿弥陀さまのお救いに救われるので あって、私がまかせたのではありません。ただ阿弥陀さまの救いに救われるそのままを頂いたのです。それが「阿弥陀さままかせ」ということだと思います。
弥陀の救いには、「自分が」は要らないのだと思います。

うまく言えなくてすみません。。
お聖教に基づいた解説などではありませんので、雑談程度に思って読み流してください。。。

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20140625/1403686823#c1403743218