安心問答−浄土真宗の信心について−

浄土真宗の信心についての問答

「信心を頂いたら生きる必要はなくなりますか?」(みそみそさんのコメントより)

みそみそ 2021-05-02 13:54:28

信心を頂いたら生きる必要はなくなりますか?

生ある以上、どんな代償、対価を払ってでも死に抗って生きなくてはいけない。
何故なら「死にたくない」から。
その「死にたくない」という本能に振り回され命尽き果てる間際まで死の運命に抗い続けないといけないというのが苦しくてたまりません。

仏教ではそれを「執着」と呼びそこから離れることを目的としている宗教と理解しています。

もし、信心を頂けたらその「執着」はなくなりますか?「生きてよし、死んでよし」の境地になり、極楽浄土の明るい後生を見据えて穏やかな余生を過ごせるようになりますか?

そしてその境地に至る為には自力では間に合わず他力でなくてはならないと聞いています。つまり求道の為のあらゆる努力は「信心を得る為」には全く意味のないものですか?
そうだとしたら私は仏法を求める気になれません。

「十劫安心との違いがわからない。結局、浄土往生間違いないって思い込もうとしてるように思う。」(やまやまやまさんのコメントより) - 安心問答−浄土真宗の信心について−

みそみそ 2021-05-03 17:29:38
結局生への執着や呪いは獲信によって解放されるのでしょうか?
そこさえ解決されれば人生に望むものはもう何もありません。 そしてそのためのあらゆる努力が他力の前では無力ならもうこれ以上仏法を聞く気にはなれません。

みそみそさんからコメントを頂きました。また、複数の方からすでにコメントを頂き有り難うございました。

「信心を頂いたら生きる必要はなくなりますか?」について、結論から先に書きます。
「死にたくないから生きねばならない」という義務感のような執着はなくなりますが、いまは縁がないの死にたいとは思いません。


みそみそさんのコメントから拝見すると「生きる必要」とか「意味のない」という言葉が苦しみの元になっているのかと思います。人生は生きる意味があるのかないのか、自分の命を対価に何かを手に入れなければこの命を使って生きることに意味がないと考えておられるのだと思います。


また、次のコメントにある「生への執着や呪いは獲信によって開放されるのでしょうか?」については、結論を先に書くと、「生への執着」というのは人としてありますが、「呪い」と言うのはありません。
なぜなら「死にたくない」は生存本能だとして「呪い」というのは、「本当はこうではないはず」「なぜこうなってしまったのか」という現実の自分と理想とすべき(または本来の)自分とのギャップによって起きるものだからです。「救われたらこうなるはず」という勝手に思い描いた自分の姿は存在しないので、現在の自分とのギャップはなくなります。ただ阿弥陀仏の願われた、見られた通りの自分があるだけです。


仏教一般では、私が命を使ってすることは、苦しみから離れることだと教えられています。コメントの文章を使えば「執着」もその苦しみの一つです。その苦しみから離れることについて、浄土真宗では阿弥陀仏の本願力によって生死を離れて浄土に往生し、仏になると教えられています。これについては、全く本願力一つの救いであって、私の出る幕はありません。ただ阿弥陀仏の本願は「本願を信じ念仏するものを救う」と言われるものなので、本願を信じ念仏することを勧められます。


この本願力にあった人は空しく生死を繰り返すことはないと言われています。

(13)
本願力にあひぬれば
 むなしくすぐるひとぞなき
 功徳の宝海みちみちて
 煩悩の濁水へだてなし(高僧和讃・浄土真宗聖典註釈版P580)


ではなぜ「空しくすぐるひとぞなき」と言われるのかというと、

「生きてよし、死んでよし」の境地になり、極楽浄土の明るい後生を見据えて穏やかな余生を過ごせるようになりますか?(みそみそさんのコメント)

とは違います。

私も以前は、そんな「境地」になって、残りの人生は余生として穏やかな気持ちで過ごすようになるのだろうと思っていました。しかしそれは、私が勝手に作り上げた「理想の自分」でした。「苦しみ悩む自分」が「理想の自分」に成り代わったことを浄土真宗でいう救いだと思っていました。ですから、「今はこんな状態だけど信心決定さえすればきっと大安心・大満足」という考えを強く持っていました。


しかし、そんな「理想の自分」は単に私が描いた妄想に過ぎません。阿弥陀仏の本願を聞くとは、阿弥陀仏の願いを聞き、阿弥陀仏の見られた通りの自分だと聞くということです。
「理想の自分になりたい」というのは「私の願い」で、「浄土に往生して仏になりなさい」というのが「阿弥陀仏の願い」です。また、「今はこんなだけれど信心決定さえすれば」というのは「私の考える苦しみ悩む自分」ですが、「自力で生死を離れられず、出離の縁が無い」のが「阿弥陀仏の見られた自分」でした。


先に書きました「理想の自分」と「現在の自分」のギャップで苦しむという苦しみは、阿弥陀仏の本願を聞くと最初からそんなものはいなかったということです。実際は阿弥陀仏の本願の上で「浄土に往生し仏になる自分」と「自力では生死を離れられない自分」が同じものとなるのでギャップはありません。なぜなら「自力では助からないものを救う本願」と聞いて疑いないからです。



「求道の為のあらゆる努力は『信心を得る為』には全く意味のないものですか?」について

浄土真宗では、求道という言葉はあまり使われません。それは、自力で求めてその自分の努力の結果としての救いがあるとは教えられていないからです。
とはいえ、「本願を信じ念仏するものを救う」阿弥陀仏の本願ですから、南無阿弥陀仏を称え聞くことを勧められます。この南無阿弥陀仏を称えることも聞くことも、称えたこと聞いたことの意味(効果)を求めるものではないので、ただ称えてただ聞くものです。
称えること聞くことにどんな意味があるのかという考え方の延長に救いがあるのではないので、意味があるとかないというのはまた別の話になります。
求める意味があるかないかを問題にするは、これで助かるのだろうかという疑問があるからだと思います。ただ、この本願力による救い以外に道はないし、この本願力にあう人は空しく過ぎることはありません。
ただ今助ける南無阿弥陀仏なので、ただ今助かると聞いて救われて下さい。

「 信心を頂いたら生きる必要はなくなりますか?」「生きる必要」「なぜ生きる」問題について

最初に結論として

「死にたくないから生きねばならない」という義務感のような執着はなくなりますが、いまは縁がないの死にたいとは思いません。

と書きましたが、もう少し付け加えて書きます。

信心を獲たら、浄土往生できるようになったらもう苦しい思いをして生きる必要はないのではないか?と思う人はあると思います。私も以前はそう思っていました。確かに「地獄へ落ちるかも知れないから死にたくない」というような気持ちはありません。「助かるまでは死ねない」という理由で歯を食いしばっても生きようという気持ちもありません。


では、一周回って阿弥陀仏に救われたなら生きる必要はあるのか?という「生きる目的」「なぜ生きる」という問題が出てくるかと思います。
確かに、浄土往生が定まったといっても、仏様から見れば凡夫に違いはなく能力面でも生活面でも変化というのはありません。経済環境や、人間関係が急に変化するというものでもありません。


私は縁あって、このようなブログを書いたり、ご縁のあるところで話をしたり、信心の沙汰をしていますが、人から何のためにやっているのかと問われれば、最初は過去に所属していた団体の人間としての贖罪の気持ちが強いと思っていました。もちろんそれは今も変わりませんが、そのためだけに歯を食いしばってやっているかというとそうではありません。ご縁があれば話に行くことについて、どんな遠くでも大変だと思ったことはありません。いわゆる「仕事」のような感覚はありません。
「自分は救われたのだから伝える義務があるのだ」「人を救うのだ」という感覚も、元いた団体の影響で最初はありましたがそれもなくなっていきました。

今は、ただ聞くべきものを聞いたら、ただ伝える人に伝えるのが南無阿弥陀仏であるということで、伝えることの報いは考えない無目的の目的で生きています。

そんなことを表現した詩を最近知ったので最後に紹介します。
相田みつおさんの「ただいるだけで」という作品です。

あなたがそこに
ただいるだけで
その場の空気が
あかるくなる


あなたがそこに
ただいるだけで
みんなのこころが
やすらぐ


そんなあなたに
わたしもなりたい(『にんげんだもの』相田みつを著)

「あなた」というのは、私から見ると「南無阿弥陀仏」です。その南無阿弥陀仏を称え聞いてくと、南無阿弥陀仏になりたいという気持ちで人にも伝えようという気持ちが出てきます。私はただの人ですが、南無阿弥陀仏を聞いて南無阿弥陀仏になりたいと思い生きています。南無阿弥陀仏を聞いてもらいたいと思って生きています。


それは私がそうすることで得をするということではないので、損得での目的はありません。救われる人がいても私の力でもありません。
ただ、「そんなあなたに わたしもなりたい」というだけです。