安心問答−浄土真宗の信心について−

浄土真宗の信心についての問答

「(獲信、獲信!)と自分から信心を掴み取ろうとしても無理です。それは阿弥陀如来の御仕事だからです。」(れんさんのコメントより)

前回のエントリーについて、複数の方からコメントを頂き有り難うございました。
コメントの中から、一部抜粋して思ったことを書きます。

れん 2013/06/23 21:24
(獲信、獲信!)と自分から信心を掴み取ろうとしても無理です。それは阿弥陀如来の御仕事だからです。
我々は、たかぼーさんが書いておられますようにただ本願を聞かせて頂くだけです。
「どうにもならないと、悲しくなります。」というのは方角違いだと思います。

小さなミイ 2013/06/23 21:40
「どうにもならないと」・・・って、自分でどうにかできると思っているということですか?

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20130621/1371806709#c1371990298

「信心獲得せよ」と聞いて、信心をつかみかかろうとすると無理なのはなぜかについて考えて見ます。

「信心を獲たい」という人は、言葉は同じでも二通りの人がいます。
1.とくにかく「信心」を獲たい人
2.救われたい人

この二者は似ているようでも違います。

1.とくにかく「信心」を獲たい人

こういう人は、「信心」というものを勘違いしておられます。
「信心」というのは、南無阿弥陀仏のお働きが私に向かっていることに疑い無くなった「状態」を指していわれたものです。このブログでいつも書いています「本願を聞いて疑い無い」となった「状態」をいいます。


病気でいえば「治った状態」を信心といいます。病気で例えるならば、薬によって「病気が治った状態」になるのであって、「病気が治った状態」で病気が治るのではありません。ですから、この方は「病気が治った状態」(信心)を、薬だと勘違いをしているということです。言い換えると、信心という言葉の意味そのものを取り違えています。向かうべきは、南無阿弥陀仏の名号であり、本願招喚の勅命です。それは「信心」とはこの場合いいません。意味を取り違えた「信心」は、実際は存在しないものですから、どれだけ真剣に求めても獲られるものではありません。

2.救われたい人

こういう人は、信心の言葉の定義をきちんと理解をしていたとしても、「救われた状態」ばかりを求めている人です。
先ほどの、病気の例えで言うと、本来病気を治す働きのある薬に目を付けずに、「病気が治った状態」ばかりを追っていては病気は治りません。


病気を治す薬にあたるのが、南無阿弥陀仏の名号です。南無阿弥陀仏の名号は、私を助けるために阿弥陀仏が本願を建てられて、その結果、本願が成就してそのお相になられたものです。その南無阿弥陀仏の名号を、私が聞き入れて疑い無い状態を信心といいます。ですから、南無阿弥陀仏の名号に目をつけず、自分の心の詮索ばかりをするのは順番が違います。それでは、絶対に信心というものは出てきません。また、「とにかく自分が助かりたい」というのは、人間の思いとしては大変よくわかりますが、貴方がそう思うよりずっとずっと前から、私の浄土往生を願われているのが阿弥陀仏です。
「阿弥陀仏の本願を聞く」「仏願の生起本末を聞く」とは、阿弥陀仏の願いを聞くということです。「私の願い事を聞いてもらう、叶えてもらう」ことではありません。どうしても私の願いを聞いてもらいたい場合は、まずすでに阿弥陀仏が差し出しておられる阿弥陀仏の願いを聞いてください。


「阿弥陀仏は私のことを判ってくれない」と思うのは思い込みです。阿弥陀仏の願いに耳を貸さずに、いつまでも自己中心の願いに振り回されていては、最も大事な南無阿弥陀仏が耳に入らなくなります。本当に浄土往生を願われているのは阿弥陀仏です。その願いが、声となって私を呼び続けているのが南無阿弥陀仏の名号です。その南無阿弥陀仏を、ただ今聞いてただ今救われてください。