安心問答−浄土真宗の信心について−

浄土真宗の信心についての問答

私は、どうしても阿弥陀仏の本願を親子の愛の更に極めたバージョンとして捉えてしまっています。(笑顔タイムさんのコメントより)

笑顔タイム 2014/06/28 01:10
私は、どうしても阿弥陀仏の本願を親子の愛の更に極めたバージョンとして捉えてしまっています。
そのほうが、感情に訴えるものがあるからです。
ありがたくて、申し訳なくて、嬉しくて涙が出てくるという感じになるからです。
阿弥陀仏は慈悲深い仏様、今のありのまんまの私、罪深い私をそのままでいいんだよと受け入れてくださる唯一の考えられないような、この世の中ではありえないような有難いお方、このように受け止めながら、時々、涙してきました。
でも、どうやら、こういう私の思いは誤っている、方向違いなのですね?
浄土往生の身にしてくださると聞いても、次元が違い過ぎて凡智では、なかなかピンとこないですよね。
確かに、まぁありがたいことではあるのだろうなぁという感じです。
私は、ずーっと、この世の中の辛いこと、悲しいことにアップアップしているので、そういう私をあったかい愛情で包み込んで守ってくださる仏様を求めてしまうのです。
しかし、こういう感情は持っても意味のない無駄なことなのでしょうか。
yamamoyamaさんのお話、丁寧でわかりやすいです。
YGMさんのお話もさすがだなぁと。
お二方、ありがとうございます。

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20140627/1403858660#c1403885454

笑顔タイムさんコメント有り難うございました。

愛と慈悲について、似ているようでもその違いについて書いていきます。

あい 愛
梵語トリンシュナーの意訳。むさぼり執着すること。十二因縁の第八支。喉が渇いているものが水を求めてやまないように、あらゆる欲望を満たそうとする心であることから、渇愛とも呼ばれる。貪愛、愛欲,慈愛などと熟語する。(略)(浄土真宗辞典

じひ 慈悲
苦を除き楽を与えること。衆生をいくつしんで楽を与えること(与楽)を慈、衆生を憐れみいたんで苦を抜くこと(抜苦)を悲と言う(略)(同上)

並べるとわかりますが、「愛」は私が出発点のものです。たとえば母親なら子供の「愛して欲しい」のサインに応じて私を愛してくれます。(今日的にいえば全ての親子に当てはまりませんが)

それに対して慈悲は、出発点が私ではなく阿弥陀仏です。つまり私の「愛して欲しい」という欲求に応じて「愛」を与えるのではなく、抜苦与楽してくださるということです。

阿弥陀仏からご覧になると、私が苦しんでいるのは愛がないからではなく真理に暗いからだと言うことです。その私の無明を破って、往生浄土させるというのは阿弥陀仏の願いです。

その意味では、阿弥陀仏を「パーフェクトな母親」とするのは、方向違いということになります。ただ、私が望む「愛」以上のものを与えて下さるのですから、それ以上の方と思われても間違いではありません。それも浄土往生を願うご縁なのですからとても大事なことです。


ただし、阿弥陀仏を「パーフェクトな母親」と想定したときの、陥りやすい間違いについて書きます。


阿弥陀仏を母親と考えると、人によっては「いい子」になろうとしてしまいます。それは「いい子でなければ愛してもらえない」という計らいです。また、「今のありのまんまの私、罪深い私をそのままでいいんだよと受け入れてくださる」と思えば、「ありのままの自分になろう」としてしまいます。しかし、そのような計らいも、阿弥陀仏の本願には織り込み済みです。


私が、「こうしなければ愛してくれない」と思うより先に阿弥陀仏の本願は建てられています。「ありのままの相をみせてもそれを受け入れてくれるのが本当の親」というのは人間同士のことです。それは人間の親なら「そんなお前とはしらなかった」ということがあるからです。しかし、阿弥陀仏の本願はどんな相をみせても「仏かねて知ろしめして」なので、私がどうこういう必要はありません。


最後に阿弥陀仏に対する愛着は、悪いことではありません。ただ、阿弥陀仏の仰せに直接するときには、その思いは否定されます。しかし、笑顔タイムさんが望むのとは違う、有り難い仰せをかけられるのが南無阿弥陀仏です。