安心問答−浄土真宗の信心について−

浄土真宗の信心についての問答

「それでは私は救われたことになるのでしょうか?」(みそみそさんのコメントより)

みそみそ 2016/06/17 22:23
ありがとうございます。それでは私は救われたことになるのでしょうか?

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20160617/1466144194#c1466169829

YGM 2016/06/18 08:48
わけがわからないのは、理屈や論理がわからないという意味では何ら差し支えないですが、
弥陀のあなたを往生させるという願いを聞いて、疑いなく思えているかが問題です。
あなたの出離は大丈夫となっていますでしょうか?

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20160617/1466144194#c1466207289

yamamoya 2016/06/18 14:36
みそみそさん
「私は救われたことになるのでしょうか?」という問いに対して、私の回答が「往生の保証」になると思われているのなら間違いです。
また、エントリーに書きます。

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20160617/1466144194#c1466228187


上記について、ここからエントリーに書きます。


みそみそさんのコメントから考えたことは「私は南無阿弥陀仏のいわれをすでに聞いている」のだから、それで信心と言ってよいのではないか」ということかと思います。
しかし、そこは注意が必要なところです。なぜならば、「私は南無阿弥陀仏のいわれをすでに聞いているから、これが信心」となりますと、浄土真宗の法座に一度でも足を運んだ人は、または、浄土真宗のお聖教に一度でも目に触れたことのある人は全て往生浄土の身にすくわれていることになってしまいます。それならば、蓮如上人が

この信心を獲得せずは極楽には往生せず(御文章2帖目2通)

http://goo.gl/PwEzOQ

と浄土真宗の御門徒宛てに書かれた御文は意味不明な文章になってしまいます。


それは、現在、南無阿弥陀仏のいわれを聞いている人のなかでも

そもそも、この御正忌のうちに参詣をいたし、こころざしをはこび、報恩謝徳をなさんとおもひて、聖人の御まへにまゐらんひとのなかにおいて、信心を獲得せしめたるひともあるべし、また不信心のともがらもあるべし。(御文章5帖目11通)

http://labo.wikidharma.org/index.php/%E5%BE%A1%E6%96%87%E4%BA%94#P--1197

と言われている通りです。交通事情の悪いなか、本願寺の報恩講に参詣するような人のなかでも、信心を獲得した人もあれば、不信心の人もあるということです。


ここで大事なことは「私はこれで救われた」ということを「自分で」決めないことです。なぜならば、阿弥陀仏の本願は、「私が自分で決めた時」に成就したものではないからです。私が「その通り」と頷くより遥か前から成就しているものです。言い替えると、「私の認可があって」初めて成就する本願ではありません。


みそみそさんが、私に「これで救われたのでしょうか」と聞かれるのは「自分でも決められない」気持ちがあるからではないかと思います。「自分で決めたこと」もあてにはなりませんが、他人の言葉はなおあてに成りません。もし、みそみそさんが私の言葉をもって「往生浄土の証拠」として「何も疑い無い」と言われるのならば、その信心は甚だあてには成りません。なぜなら、あくまでも人間の言葉が前提となっており、阿弥陀仏の本願が前提となっていないからです。


第三者の言葉を基準とせず、「弥陀の本願まこと」と聞き入れるのは、やはり「弥陀の本願」以外には証拠はありません。人の言葉という補助を用いずに、南無阿弥陀仏のいわれを聞いて下さい。ただ今救う本願を、ただ今救う本願と聞けば、ただ今救われます。