安心問答−浄土真宗の信心について−

浄土真宗の信心についての問答

「疑いは徐々に減ってきています。この亡が徐々に減っていって、0になることが信心決定だと思っているのですが、これは違いますか」(Peing質問箱より)

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自分は昔は疑いっぱなしでしたが、最近は若存若亡の状態です。疑いは徐々に減ってきています。この亡が徐々に減っていっ | Peing -質問箱-
Peing-質問箱-に頂いた質問について、追加で書きます。


以前は疑いだらけだったけれども、最近は若存若亡の状態とのことです。
若存若亡の言葉の意味について、浄土真宗辞典から引用します。

にゃくぞんにゃくもう 若存若亡
信心が不確かであること。『論註』には「信心淳からず、存するがごとし、亡ぜるが如きのゆゑに」(信巻引文・註215)とある。また『高僧和讃』には「若存若亡するゆゑに」(註586)とあり、「国宝本」左訓には「あるときは往生してんずとおもひ、あるときは往生はえせじとおもふを若存若亡といふなり」とある。

今は、「あるときは往生できるだろうと思ってみたり、あるときは往生はできないだろう」と思う状況だということが分かりました。


では、段々と疑いが減ってきてこれがゼロになるのかといえば、そういう形でゼロにはなりません。
段々と疑いが減ってきたと言う状況は自力の延長ということになるので、自力の延長はやはり自力にしかなりません。漸近線のように近づいてもゼロにはなりません。


図で書くとこういう感じです。

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疑いが減った延長としてゼロにはならない


質問された方が、以前は沢山あった疑いが徐々に減ってきたのは聴聞を重ねてこられたからだと思います。いろいろと聞いて学んだ結果、理屈の上での疑問はかなり解消されてきたのだと思います。


ではその結果、段々減ってきた疑いがゼロになるとすれば、「理解を重ねた結果として疑いがゼロになる」ということになり、学問等の自力によって疑いが無くなるということになります。


疑いは、私の力によって晴れるのではなく、南無阿弥陀仏によって晴れます。

しかれば名を称するに、よく衆生の一切の無明を破し、よく衆生の一切の志願を満てたまふ。称名はすなはちこれ最勝真妙の正業なり。正業はすなはちこれ念仏なり。念仏はすなはちこれ南無阿弥陀仏なり。南無阿弥陀仏はすなはちこれ正念なりと、知るべしと。(教行信証行巻・浄土真宗聖典註釈版P146)
(現代文)
こういうわけであるから、阿弥陀仏の名を称えるならば、その名号の徳用としてよく人びとのすべての無明を破り、よく人びとのすべての願いを満たしてくださいます。称名はすなわち、もっとも勝れた、真実にして微妙な徳をもった正定の行業です。正定業は、すなわち称名念仏です。念仏は、すなわち南無阿弥陀仏です。南無阿弥陀仏が、すなわち正念です。このように知るべきです。

https://bit.ly/34enSIP


少なくとも、「今の延長上に疑いがゼロになる、救われる」という考えは、ただ今救われることを前提としていないので間違いになります。
「この先」ではなく「ただ今」が阿弥陀仏が私を救って下さる時です。徐々に疑いが減ってきたということは、一度横に置いて、ただ今助けるという南無阿弥陀仏にただ今救われて下さい。ただ今救われると疑いは無くなります。