安心問答−浄土真宗の信心について−

浄土真宗の信心についての問答

「南無阿弥陀仏とは一種の自己暗示なのではないのかと思っています。南無阿弥陀仏と唱えることによって阿弥陀如来に生死の問題を丸投げして単に思考停止している状態を仮に獲信と呼んでいるのかなと思います。」(名無しさんのコメント)

名無しさんよりコメントを頂きました。有り難うございました。エントリーが遅くなりすみません。

名無し 2017/02/11 20:07
南無阿弥陀仏とは一種の自己暗示なのではないのかと思っています。
南無阿弥陀仏と唱えることによって阿弥陀如来に生死の問題を丸投げして
単に思考停止している状態を仮に獲信と呼んでいるのかなと思います。
そして実際に生死の問題されたかどうかは誰にも分からないし、確認のしようがない。
本当に自力では生死の問題をどうすることも出来ない者にこれ以上生死のことで悩み、迷う必要のないよう「釈尊が創作した単なるおまじない」でしかないのかも知れないなと思うのですがどうお考えですか?
本来地獄も、浄土もなくて、死ねば肉体は焼かれて自然の一部となり、魂だの自我と言ったものは最初からどこにも存在していなくて、あくまでこれは「私という漠然とした概念」を便宜的に定義する為だけのもので、死ねば霧散してしまうもの。
つまりもしかしたら、死後、悟りもなければ、浄土もない、死後に残るものなど何一つ存在せず、そもそも救いの対象たる「私」すら存在せず、ただ、生死の問題を解決できないもののために今生〜臨終まで南無阿弥陀仏の名のもとに助からないものに対しての自己暗示なのではないのかと思っています。

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20170129/1485637977#c1486811267

複数の質問を頂いておりますので、順番に書いて行きます。
最初の自己暗示についてです。

じこ−あんじ【自己暗示】
〖名〗一定の観念を繰り返すことによって自分自身に暗示を与え、通常と異なる心の状態をつくり出すこと。精神療法にも利用される。(精選版 日本国語大辞典より)

南無阿弥陀仏が自己暗示であるならば、自分自身に言い聞かせているだけとなりますから、その信心も崩れることもある信心となってしまいます。
また、生死の問題が解決されたかどうかは、仰るように第三者には観察することが出来ません。阿弥陀仏とその当事者の間でしか解りません。もちろん、いわゆる「思い込み」の信心もあるので、そういうものは自己暗示といって差し支えはありません。しかし、南無阿弥陀仏のいわれを聞いて疑い無い信心は、自分の思いを挟む必要がないものなので、思い込みも必要ありません。


次に、南無阿弥陀仏は釈尊が創作したおまじないかどうかという点です。経典に説かれていることの真偽は、お訊ねの件については経典以外では証拠にならないので、回答はできません。ただ、その南無阿弥陀仏によって多くの方が生死を離れて、浄土に往生していかれたのが浄土真宗です。


最後に、いろいろと悩む私というものが存在しないのではないかという点です。固定的な自我というものは存在しないというのが、仏教でいう無我です。
南無阿弥陀仏については、親鸞聖人は教行信証行巻で南無阿弥陀仏について、種々経典からその他の高僧方の著書から引文されたあと、最後にこう言われています。

あきらかに知んぬ、これ凡聖自力の行にあらず。ゆゑに不回向の行と名づくるなり。大小の聖人・重軽の悪人、みな同じく斉しく選択の大宝海に帰して念仏成仏すべし。(教行信証)
(現代文)上来引用された経、論、釈の文によって、本願の念仏は、凡夫であれ聖者であれ、自らのはからいによって往生の行にしていくような自力の行ではないということが明らかにわかりました。
阿弥陀仏より与えられた往生行ですから、行者のほうからは不回向の行と名づけられています。大乗の聖者も小乗の聖者も、自らの善をたのまず、また悪人も罪の重い軽いをあげつらうことなく、同じく自力のはからいを離れて、大海のような広大無辺の徳をもって一切を平等に救いたまう選択本願に帰入して、念仏し成仏すべきです。

https://goo.gl/xuIBnI

繰り返しになりますが、南無阿弥陀仏は「凡聖自力の行にあらず」ですから、自己暗示ではありません。
親鸞聖人が「みな同じく斉しく選択の大宝海に帰して念仏成仏すべし」と仰るように、南無阿弥陀仏の救いは自己暗示や思い込みでも、釈尊の創作でもありません。南無阿弥陀仏でただ今救われて下さい。