安心問答−浄土真宗の信心について−

浄土真宗の信心についての問答

「念仏を称えていますが、一向に獲信の気配が見えてきません。何が間違っているのでしょうか?そもそも獲信するとはどういう事でしょうか?」(頂いた質問)

念仏を称えていますが、一向に獲信の気配が見えてきません。
何が間違っているのでしょうか?
そもそも獲信するとはどういう事でしょうか?(頂いた質問)

念仏については、親鸞聖人にはこのように言われています。

いま弥勒付属の一念はすなはちこれ一声なり。一声すなはちこれ一念なり。一念すなはちこれ一行なり。(顕浄土真実行文類 - WikiArc・浄土真宗聖典註釈版P189)

大無量寿経で弥勒菩薩に付属されているところの「一念」とは、一声の念仏の事であり、この「一念」が一形である。といわれています。この「一行」が私の往生を定めた行であるとされています。

この一声の念仏以外に私が浄土に往生する働きはないと言われています。

では、信心とはなにかと言えば、信一念の釈で親鸞聖人はこのように言われます。

「一念」といふは、信心二心なきがゆゑに一念といふ。これを一心と名づく。一心はすなはち清浄報土の真因なり。(顕浄土真実信文類 (末) - WikiArc・浄土真宗聖典註釈版P251)

その前に「聞其名号」について解説をされているので、南無阿弥陀仏を聞いて疑い無いのが一念であり、信心に二心ないことだといわれます。これを一心ともいわれ、この一心が浄土往生の因となるといわれます。


私が浄土往生する行は、念仏の一行以外にないというのが二心ないということです。その念仏一行を二心なく受け入れたことを一心の信心と言われます。

その意味で、獲信とは行は一行の念仏以外にないと、疑い無く受け入れた一心の信心のことです。

念仏を称えた先に信心があるのではありません。念仏を称えている時に、「この称えた先に救いが有る」というのは違います。
念仏が私の往生の行であるというの南無阿弥陀仏を聞いて疑い無いのが信心です。