安心問答−浄土真宗の信心について−

浄土真宗の信心についての問答

ただ今救う本願(平生業成)の根拠(YYさんのコメント)

YYさんよりコメントを頂きました。有り難うございました。

「阿弥陀仏は現在ただ今救って下さる」といつもお聞きして
おりますが、「ただ今救う」という御聖教上の根拠を知りたいのですが。
本願文の設我得仏十法衆生〜だけでは、解らないのです。(YYさんのコメント)

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20100811/1281513141#c1281536917

阿弥陀仏はただ今救って下されるというのは、別の言葉で言えば平生業成ということです。

よく読まれている御文章では以下の部分になります。

さればこの信をえたる位を、『経』(大経・下)には「即得往生住不退転」と説き、『釈』(論註・上)には「一念発起入正定之聚」(意)ともいへり。これすなはち不来迎の談、平生業成の義なり。(御文章1帖目2通・出家発心・註釈版聖典P1085)

経典上では、本願成就文の即得往生住不退転がそれにあたります。また、曇鸞大師の往生論註では「一念発起入正定之聚」ともいわれています。
いずれも、臨終ではなく、平生の一念に往生が定まり不退転に住すると言われています。

親鸞聖人ご自身のお言葉では、「平生」というお言葉はありませんが、臨終に対して尋常というお言葉を使われて教えられています。

「願力摂得往生」といふは、大願業力摂取して往生を得しむといへるこころなり。すでに尋常のとき信楽をえたる人といふなり、臨終のときはじめて信楽決定して摂取にあづかるものにはあらず。ひごろ、かの心光に摂護せられまゐらせたるゆゑに、金剛心をえたる人は正定聚に住するゆゑに、臨終のときにあらず、かねて尋常のときよりつねに摂護して捨てたまはざれば摂得往生と申すなり。(尊号真像銘文・註釈版聖典P657

阿弥陀仏の18願の救いは、臨終の救いではありません。臨終ではなく尋常の時(平生の時)信楽をえて、正定聚に住するものです。
一生涯の善根の積み重ねで往生が決まるというのは、臨終業成であって、阿弥陀仏の18願の救いではありません。

平生と言っても、私が生きているただ今のことであり、昨日のことでも明日のことでもありません。現在ただ今が平生です。
私が今と思えるただ今が平生です。過去でも未来でもなく、ただ今呼びかけられる阿弥陀仏の仰せを聞いて救われるのですから、ただ今救われます。