安心問答−浄土真宗の信心について−

浄土真宗の信心についての問答

「広大難思の慶心」とはどんな心ですか?(aさんのコメントより)

aさんよりコメントを頂きました。有り難うございました。

凄いとは、どの位すごいのか、各自イメージするところは違うと思います。私も、信心決定するとは、阿弥陀仏に対する信順無擬であると言葉では理解してます。一方、御文章一条目第一通の、(以下引用)ー身の置きどころもなく、躍り上がるほどに思うあいだ、喜びは身にも嬉しさが余りぬると言えるこころなりーや、教行信証信巻の、(引用)一念とは信楽開発の時剋の極促を顕し広大難思の慶心を彰すなりー、とあるのは、どう考えれば良いのでしょうか?(aさんのコメント)

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20110327/1301176303#c1301181858

結論から言いますと教行信証の「広大難思の慶心」は、法の徳をいわれたものです。御文章の「身のおきどろこもなく、躍り上がるほどに思うあいだ」は、救われた後の喜びをいわれたものですが「躍り上がるほどに思う」は形容表現であって、誰でも彼でも実際に躍り上がるということではありません。

コメントで頂いた教行信証のご文から回答します。

それ真実の信楽を案ずるに、信楽に一念あり。一念とはこれ信楽開発の時剋の極促を顕し、広大難思の慶心を彰すなり。(教行信証信巻・浄土真宗聖典(註釈版)P250

  • 現代語訳
    • さて、まことの信楽について考えてみると、この信楽に一念がある。一念というのは、信心が開きおこる時のきわまり、すなわち最初の時をあらわし、また広大で思いはかることのできない徳をいただいたよろこびの心をあらわしている。

現代語訳にもありますが、「信心が開け起きる最初の時(信楽開発の時剋の極促)」が一念です。その時間が「速い遅い」という意味のお言葉ではありません。そういう解釈もありますが、「速い遅いだけの意味」で解釈をしているのは親鸞会ぐらいではないかと思います。


「信楽開発」は、信心が開けおきるということです。

「時剋」とは、時間のことですが、私の身の上で起こされる信心についての話なので、私の時間、私の人生の時間ということです。
「極促」とは、「極」はこれより前がないということです。「促」は、前後があるという意味です。

ここは、一念についての釈です。本願成就文の「乃至一念」の「乃至」について親鸞聖人は、一念多念証文に以下のように言われています。

「乃至」は、おほきをもすくなきをも、ひさしきをもちかきをも、さきをものちをも、みなかねをさむることばなり。(一念多念証文・浄土真宗聖典(註釈版)P678)

ここに「さきをものちをも」と言われています。「速い遅い」とはいわれていません。「先をも後をも」ということは、前後ということです。
命伸びれば、信心は生涯終わるまで相続しますが、縮めていえば一念です。
「さきをものちをも」という意味で、時間を前へ前へともどしていくと、信心が私の上に開発した最初の時があります。それが「極促」ということです。

次に「広大難思の慶心を彰す」とは、信楽が開発したその最初の時における法の尊さ、信楽の徳、法のものがらをいわれたものです。
広大難思とは、信楽の徳は、広大であり難思であって私が想像も出来ないものということです。慶心とは、本願に対する疑いのない心です。

信楽そのものは、本願に対する疑いの無い心です。ここでいわれる喜びとは、本願に疑いが晴れ、弥陀をたのんだ心です。
実際にわたしが「うれしい」か「有り難い」と思うのは、信楽開発したその最初の時に思うことではありません。信の一念の後に、喜ぶ心です。

この信心をうるを慶喜といふなり。慶喜するひとは諸仏とひとしきひととなづく。慶はよろこぶといふ、信心をえてのちによろこぶなり、喜はこころのうちによろこぶこころたえずしてつねなるをいふ、うべきことをえてのちに、身にもこころにもよろこぶこころなり。(唯信鈔文意・浄土真宗聖典(註釈版P712

「信心をえてのちによろこぶなり」「うべきことをえてのちに、身にも心にもよろこぶこころなり」と言われています。

その上での喜びというのはどういう喜びかと言えば、一念多念証文に言われています。

「歓喜踊躍乃至一念」といふは、「歓喜」は、うべきことをえてんずと、さきだちてかねてよろこぶこころなり。
「踊」は天にをどるといふ、「躍」は地にをどるといふ、よろこぶこころのきはまりなきかたちなり(一念多念証文・浄土真宗聖典(註釈版)P684

正定聚に定まり、往生できる身になったことを喜ぶ心であり、「天にをどる」「地にをどる」については「よろこぶこころのきはまりなきかたち」といわれています。「かたち」ですから、形容表現ということであって、実際に天に踊り地に踊るということをするのではありません。
日常生活で、もっともうれしいことを表現するときには「天に踊り地に踊る」と表現することがありますが、正定聚の身になった喜びをこのように形容されています。実際に、日常生活で喜ぶことの延長線上にあるような喜びではありません。

阿弥陀仏の本願の仰せを聞いて、往生定まった喜びは大変うれしいものですが、「天に踊り地に踊る喜びですか?」と言われると世の中のことでそのように表現される喜びとは違う喜びです。

コメントに頂いた御文章についてですが

「こよひは身にもあまる」といへるは、正雑の分別をききわけ、一向一心になりて、信心決定のうへに仏恩報尽のために念仏申すこころは、おほきに各別なり。かるがゆゑに身のおきどころもなく、をどりあがるほどにおもふあひだ、よろこびは身にもうれしさがあまりぬるといへるこころなり。(御文章一帖目一通・浄土真宗聖典(註釈版)P1085

こちらの喜びは、信一念の時ではなく、信心決定のあとの心をいわれたものです。

「身のおきどろこもなく、をどりあがるほどにおもふ」というのも、一念多念証文の「「踊」は天にをどるといふ、「躍」は地にをどるといふ、よろこぶこころのきはまりなきかたちなり」を受けられての表現だと思います。
大変うれしいこと、喜びの深いことをいわれたのであって、実際に常に踊り上がっていると言うことではありません。
日々の暮らしの中では、悲しい気持ちになるときも、何も考えていないときも、多くあります。しかし、どんな状況におかれても、阿弥陀仏が常に呼び続けて、働いておられる喜びが壊れて無くなってしまうということはありません。
常に私に働いて下さっていますので、「よろこびは身にもうれしさがあまりぬる」といわれています。


信心決定がとてつもない体験とか、その瞬間に大慶喜がおきて飛び上がるような喜びがおきるというのは、教行信証の信一念の釈を読み間違っているからです。
信一念の釈に「『慶心』とあるから喜ぶのだろう」と、信楽=喜びというのは間違いです。
「『極促』とあるからとにかく速いのだ「あっともすっとも言う間もない間に救われる」と「速さ」を信心にいうのも間違いです。


信一念の釈は、一念は信楽開発したはじめの時であり、「広大難思の慶心」は本願に疑い晴れた信楽の徳をいわれたお言葉で
す。

喜びというのは、信一念の後にいうことですが、実際に踊り上がって喜ぶような喜びでなく、正定聚に定まった喜びであり、阿弥陀仏の本願の仰せを聞いている喜びです。