安心問答−浄土真宗の信心について−

浄土真宗の信心についての問答

「一念覚知は間違った考えと聞きますが、どこがどのように間違いなのでしょうか?」(頂いた質問)

一念覚知は間違った考えと聞きますが、どこがどのように間違いなのでしょうか?(頂いた質問)


最初に一念覚知の言葉の意味を浄土真宗辞典から紹介します。

浄土真宗辞典

浄土真宗辞典

いちねんかくち 一念覚知
行者は、信の一念に信心を得たという自覚があるとし、その具体的な日時などを明確に記憶していなければならないとする理解。往生成仏の正因である他力信心の獲得に、行者の意業が関与することになるので、異安心とされる。

平たくいえば、救われたらその時の自覚があるというものです。もう少し、言い換えると救われている「自覚にこだわる」ことをいいます。
例えば、「あの時救われたとハッキリしました」「救われたら明らかな大自覚がある」「こんなに○○な心になったのですから間違いありません」などいう考えです。


こういうと、蓮如上人は「今こそ明らかに知られたり」と仰っているではないか?と思われる方もあると思います。今回はそのお言葉の意味はいわゆる「一念覚知またはそれに似たもの」では無いことを書きます。


御文章で「今こそ明らかに知られたり」と書かれている箇所は二ヶ所です。

しかるにこの光明の縁にもよほされて、宿善の機ありて他力の信心といふことをばいますでにえたり。これしかしながら弥陀如来の御方よりさづけましましたる信心とはやがてあらはにしられたり。かるがゆゑに、行者のおこすところの信心にあらず、弥陀如来他力の大信心といふことは、いまこそあきらかにしられたり。(御文章2帖目13通)

http://goo.gl/wjdX3u

しかるにこの光明の縁にもよほされて、宿善の機ありて、他力信心といふことをばいますでにえたり。これしかしながら弥陀如来の御かたよりさづけましましたる信心とはやがてあらはにしられたり。かるがゆゑに行者のおこすところの信心にあらず、弥陀如来他力の大信心といふことは、いまこそあきらかにしられたり。(御文章5帖目12通)

http://goo.gl/zPM1it

どちらもほとんど同じ文章で書かれています。ご覧になれば分かりますが、ここで「いまこそあきらかにしられたり」と言われているのは「信心を私は今獲たこと」ではありません。他力の信心は「行者のおこすところの信心にあらず」「弥陀如来の御かたよりさづけましましたる信心」だということが「いまこそあきらかにしられたり」と言われているのです。


また、「他力信心といふことをばいますでにえたり」とあるのも、何か実体のあるものを受け取ったように思いますがそれも違います。御文章では他力の信心とは「雑行を捨てて弥陀をたのむ」「南無阿弥陀仏の六字をこころうる」ことだと言われています。「何かものを頂くこと」を信心だと仰った所はありません。


他力の信心をえたというのは、自力心が南無阿弥陀仏によって否定されたことであり、南無阿弥陀仏の仰せに従った事をいいます。ですから、私の手元に何か「確かなもの」が手に入る・留まるというのは間違いです。ただ南無阿弥陀仏が働いているだけです。


それを安心決定鈔にはこのように言われています。

かるがゆゑに領解も機にはとどまらず、領解すれば仏願の体にかへる。名号も機にはとどまらず、となふればやがて弘願にかへる。かるがゆゑに浄土の法門は、第十八の願をよくよくこころうるほかにはなきなり。 (安心決定鈔)

http://goo.gl/9nxUNK

ただ「第十八の願をよくよくこころうるほかにはなきなり」で、確かなものが私の手元にない以上、それを「覚知」できるというのは間違いです。


ほかに書くこともありますが長くなるので、続きは次回のエントリーに書きます。