安心問答−浄土真宗の信心について−

浄土真宗の信心についての問答

「一念覚知は間違った考えと聞きますが、どこがどのように間違いなのでしょうか?」(頂いた質問)3

「一念覚知は間違った考えと聞きますが、どこがどのように間違いなのでしょうか?」(頂いた質問)

前回のエントリーの続きを書きます。

覚知という言葉について、一念覚知の人は信心を「自覚」「体験」という言葉で語りがちです。
しかし、自覚にしろ体験にしろ「知った」「分かった」という意味の言葉です。そのような「知った」「分かった」は他力信心ではありません。なぜなら、「知った」「分かった」は「知ることが出来る」「分かる事が出来る」自分がいる前提の話だからです。それらの「知ることが出来る自分」が、阿弥陀仏を自分とは離れた存在として対象化して「信じようとしている」のは自力の信心出会って他力信心ではありません。

他力信心は、そのような「信じられる自分」が阿弥陀仏の「ただ今救う」の仰せに否定された所に成り立つものです。


ですから、「分かったぞーー!!」声高に主張しなければならない信心は、他力信心とはいいません。