安心問答−浄土真宗の信心について−

浄土真宗の信心についての問答

「一念」と「広大難思の慶心を彰す」の関係について(Kさんのコメント)

Kさんよりコメントを頂きました。有り難うございました。

「一念」と「広大難思の慶心を彰す」とはどのような関係でしょうか?一念のときに喜びの心が起きるという意味を含んでいるように思えますがどうなのでしょうか?(Kさんのコメント)

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20090915/1253009738#c1253022218

回答します。
結論から言いますと、救われた一念の「とき」に正定聚の数に入り、往生定まるので、広大難思の慶心がその「一念」のうちにあらわされているということです。一念は、その「とき」だけではなく、その後もずっと相続する一念です。

それ真実の信楽を按ずるに、信楽に一念有り。『一念』とは、これ信楽開発の時尅の極促を顕し、広大難思の慶心を彰すなり。(教行信証信巻)

上記の親鸞聖人のお言葉についてお尋ねです。
(大意)
真実の信楽をについて考えてみると、信楽に一念がある。「一念」とは、真実信心が開発する極めて早い時間という意味であり、広大難思の慶心という意味がうちにあらわされている。


このように解説しましたのは、「顕し」と「彰す」の意味が異なるからです。
「時尅の極促を顕し」の「顕し」とは、文字通りの意味をあらわすと言うことです。
一方、「広大難思の慶心を彰すなり」の「彰す」は、隠れた意味を目立たせるという意味があります。

救われていない人が、救われた一念も時尅の極促ですが、その一念がずっと続くのです。救われたその時は嬉しいけれど、あとは続かないという信心ではありません。
阿弥陀仏から常にただ今救われている信心ですから、一念の信心は、死ぬまで続くのです。こうして生きている、ただ今常に南無阿弥陀仏が聞こえて下さる信心です。一念とは、現生正定聚に入れて頂き、往生浄土の身になることです。現在ただ今が、初めて救われた一念と同様に、続いているのです。

一念が続くということは、常に初めて救われているので、赤尾の道宗にこんな言葉があります。

つねに初事と聞くのは、一念が相続するから

一、道宗は、ただ一つ御詞をいつも聴聞申すが初めたるやうにありがたきよし申され候ふ。(御一代記聞書)

聴聞して、常に初事、はつごとと聞くのは、阿弥陀仏の御心をつねにただ今聞いているからです。

阿弥陀仏の方からいいますと、一念で南無阿弥陀仏を与えることができ、往生定まる身に救うことができるわけですから、阿弥陀仏が慶ばれているのが、広大難思の慶心なのです。
五劫思惟の願も、兆載永劫の行も、私を往生させるためにです。それが定まった一念ですから、阿弥陀仏が慶ばれるのです。常にその一念が相続しますから、常に慶ばれるのです。

このような意味で一念は、「広大難思の慶心を彰す」といわれています。