安心問答−浄土真宗の信心について−

浄土真宗の信心についての問答

「如来の願い」とは、どのようなことですか?(AZさんのコメントより)

AZさんよりコメントを頂きました。有り難うございました。

AZ 2013/12/01 10:03
「如来の願い」とは、どのようなことですか?

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20131127/1385539751#c1385859786

如来の願いとは、阿弥陀如来の願いのことであり、「阿弥陀仏の本願」と意味は同じです。

ちなみに「本願」を「浄土真宗辞典」ではこのように書かれています。

ほんがん 本願
(略)
仏が因位の菩薩であったときにおこした因本の願いという意。この願いは、それが完成しなければ仏にならないという誓いをともなっているので誓願といわれる。また、衆生救済のための根本となる願の意で、阿弥陀仏の四十八願中、特に第十八願を指して言う。(浄土真宗辞典より)

特に阿弥陀仏の本願は、すべてのものを浄土往生させ、仏にするという願いです。すべての人といっても、それは聞いている立場からすると「私」を浄土往生させ、仏にするという願いです。さらに言えば、私一人の為に願われたのが、阿弥陀仏の本願です。阿弥陀仏が、法蔵菩薩であったときに全てのひとが仏にならなければ、仏にならないと誓われました。その結果、その願いは南無阿弥陀仏一つで私を仏にするという形で成就しました。

それを、蓮如上人は御文章で以下のように言われています。

阿弥陀仏の、むかし法蔵比丘たりしとき、「衆生仏に成らずはわれも正覚ならじ」と誓ひましますとき、その正覚すでに成じたまひしすがたこそ、いまの南無阿弥陀仏なりとこころうべし。(御文章4帖目8通_八箇条)

http://goo.gl/XbJ6c3

「衆生仏に成らずはわれも正覚ならじ」という誓いが、ただの誓いではなく現在すでに成就しています。その証拠が、現在の南無阿弥陀仏なのです。私が「南無阿弥陀仏」と念仏することができるもの、これは阿弥陀仏の本願が成就しているからです。しかも、この「南無阿弥陀仏」が私を仏にするお働きそのものだということです。


南無阿弥陀仏は「私を必ず仏にしてみせる」の如来の願いが、声となったものです。それも願った通りになるので「成就した」といわれるのです。ただの「希望的観測」「夢」「あんなこといいなできたらいいな」ではありません。すでに成就した「願い」には、「力」がともないます。ですから、親鸞聖人は「本願力」と仰いました。その本願力のお働きによって私は浄土往生を遂げることも、仏になることも、阿弥陀仏の願いによってさせていただけるのです。これを如来の願いといいます。