安心問答−浄土真宗の信心について−

浄土真宗の信心についての問答

「私を仏にするというのはとても驚くことで、壮大(?)すぎてどこか遠いところの話としか聞けないのですが。自分のこととして聞く、がわからなくなりました。」(AZさんのコメントより)

AZさんよりコメントを頂きました。また、みなさんからAZさんにコメントをいただきました。有り難うございました。

AZ 2013/12/02 19:10
山も山さん、ありがとうございます。

如来の願いを聞くとは「私を必ず仏にしてみせる」の南無阿弥陀仏を聞く、という理解でよいでしょうか。
みなさんのコメントに「自分のこととして聞く」とありましたが、私を仏にするというのはとても驚くことで、壮大(?)すぎてどこか遠いところの話としか聞けないのですが。自分のこととして聞く、がわからなくなりました。

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20131202/1385975242#c1385979039

如来の願いを聞くは、AZさんの言われる通りで、私を仏にすると誓われた南無阿弥陀仏を聞くということです。

AZ 2013/12/04 10:35

いろいろ教えてくださり、ありがとうございます。
難しいというのが正直な思いですが、私ひとりのため←ここ驚きです。信じることができない私一人のために、一方的に願いがかけられている、何ということだろう。私一人を見据える如来(想像してみました)、なぜだ、それはみなさんのコメントに書かれてあるのが私だから。如来の願いは教えてもらって知ることができましたが、これは気づくとは違うと思っています。如来の働きで今の私があるなら、気づくのも自分の力でなく如来の働きですか?すみません、混乱しています。

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20131202/1385975242#c1386120931

AZさんが、「私ひとりのため」の本願であることに驚かれたのもよく分かります。実は私も、驚きました。


そこが、阿弥陀仏の救い・信心と、それ以外の宗派・宗教でいわれる救い・信心との違いです。
一般に考えられる「救い」というのものは、私の願いに応じて与えられるものです。それに対して、阿弥陀仏の救いは私が願う前に既に成就しています。いってみれば、阿弥陀仏の本願に触れた時に、「私が願ってもいないのに阿弥陀仏は願っておられた」ということを聞くわけです。


浄土真宗の教えを知り、よくよく聞いて「私も浄土往生したい」とか「仏になりたい」という気持ちになったときには、「お前の願いはすでに阿弥陀仏が先回りして解決したぞ」と仰る訳ですから、驚くよりほかありません。こちらがお願いしようと考え始めた時には、すでに「その問題は解決済みです」というのが、阿弥陀仏の仰せだからです。


それを二河白道のたとえで、善導大師が言われたことを、親鸞聖人は教行信証に引文されています。

また西の岸の上に、人ありて喚ばひていはく、〈なんぢ一心に正念にしてただちに来れ、われよくなんぢを護らん。すべて水火の難に堕せんことを畏れざれ〉と。 (教行信証信巻_浄土真宗聖典 (註釈版) 第ニ版P224)

http://goo.gl/DWjLs

「ただちに来れ」と言われるのは、私が願うことも既に折り込み済みで本願は成就したということです。「どう聞いたら」とか「どう思ったら」ということも、阿弥陀仏の側ではすでに解決した問題なので、「ただちに来れ」と言われるのです。


それを聞いたならば、本願のいわれを聞いたことになります。「ただちに来れ」の阿弥陀如来の仰せを聞いた上で知ったことですから、自分の力ではなく阿弥陀如来の働きかけ、呼びかけによるものです。


阿弥陀仏と私の間に、何かしらの距離を置いて、「私が何もしなければ助かるはずがない」と考えるのは、阿弥陀仏が動かない仏像のように考えているからです。南無阿弥陀仏は、生きています。南無阿弥陀仏は固定したものではなく、働いておられます。それも、私めがけて働いておられます。そのお働きを、親鸞聖人は本願力回向と仰いました。

しかるに本願力の回向に二種の相あり。一つには往相、二つには還相なり。(浄土文類聚鈔_浄土真宗聖典 (註釈版) 第ニ版P478)

http://goo.gl/gcaGL3

往相、還相の回向といってもその対象は「私」です。十方衆生といった場合でも、十方衆生一人一人に個別に回向されるのです。そんなことは、確かに人間世界では考えられないことです。しかし、十方衆生を仏にすると誓われた本願が成就したということは、そのように一人一人に南無阿弥陀仏と呼びかけられているということです。



ただ、AZさんが驚かれたのもその通りだとおもいます。
歎異抄に親鸞聖人のお言葉として紹介されている、以下のお言葉も

弥陀の五劫思惟の願をよくよく案ずれば、ひとへに親鸞一人がためなりけり。(歎異抄後序_浄土真宗聖典 註釈版 P853)

とあります。「よくよく案ずれば」と前置きして「ひとへに親鸞一人がためなりけり」と仰っています。なぜならば、本願文には「十方衆生」とあっても「親鸞一人」とは書かれていないからです。しかし、親鸞聖人ご自身が「よくよく案ずれば」私一人のために本願は建てられたのだと仰いました。それは、十方衆生のなかでも「私は救われ難い人間だ」という立場に立って言われたことです。


そこで、話をAZさんのコメントに戻しますと、このような親鸞聖人のお言葉を聞くとどう思われるでしょうか?「本願を私一人と思える人は凄い人」という思いはないでしょうか?文章にするとややこしくなりますが、「『私一人と思える人を救う本願』と思えない私」を目当てに建てられたのが、阿弥陀仏の本願です。「阿弥陀仏の救いとはいっても、○○な人には関係あるけれど、私には縁遠い話だ」と思われるなら、その「本願に縁遠い人」を目当てに建てられたのが阿弥陀仏の願いです。AZさんは、阿弥陀仏に願う人ではなく、阿弥陀仏に願われた人です。阿弥陀仏の願いをそのまま聞いてください。ただ今必ず救われてください。

AZさんのコメントとそれに対する他の方のコメントまとめ(エントリー公開時点)

AZ 2013/12/02 19:10
山も山さん、ありがとうございます。

如来の願いを聞くとは「私を必ず仏にしてみせる」の南無阿弥陀仏を聞く、という理解でよいでしょうか。
みなさんのコメントに「自分のこととして聞く」とありましたが、私を仏にするというのはとても驚くことで、壮大(?)すぎてどこか遠いところの話としか聞けないのですが。自分のこととして聞く、がわからなくなりました。



とくよしみね 2013/12/02 23:24
AZさま

阿弥陀様の願いをそのまま聞くと言っても、仏にすると誓われていると聞いても、
全く信じることは出来ない。
出来る訳がない。

なぜなら私には、真(まこと)が一つもないから。

しかし、仏様は真実の固まり。

さてさて、どう聞いたら・・・となるかも。

どう聞いても信じられないのが私の姿。
この、自力無効(虚仮不実)の私をそのまま救うと言われています。

とっても有り難いのですけど・・・。
それだけなんですけど。

一つ、大事なのは繰り返しになりますが、
私には何一つ力が無い(自力無効)ことです。
そこに疑いは有りません。

全て、阿弥陀様の働きによって今の私が有ると
そう教えられています。
簡単に言うとそういうことなんですけど。

私は仏になんかなる気はありませんし、
仏様がどういう人かと言われてもお釈迦様しか思い浮かびませんが、
阿弥陀様がそうすると言われているのですから、
しゃあないですね。

繰り返しになりますが、私には仏になる気は全くありません。

南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏

機を 見ればどこをとらえて正定聚 法にむかえば うれしはずかし 「おその同行」



イマジン 2013/12/03 02:35
>自分のこととして聞く、がわからなくなりました。

そうですよね、途方に暮れるというかね。

そこでですが、山も山さんの仰る「さらに言えば、私一人の為に願われたのが、阿弥陀仏の本願です。」
が本当ならば、と想定してみて下さい。
他の誰でもない、AZさまお一人に相対しておられる阿弥陀仏のお姿を、想像してください。
たとえばじっと座って瞑目するAZさまの眼前に、阿弥陀仏はAZさまだけを見据えて座っておられる、と。
昔も今もずっと変わらず、そうして来られたのだ、と。

如何でしょうか。
私なんかのために、まじですか阿弥陀さまとなりますよね。
この想像は、しかしながら想像のみにあらず、事実なのですね。

かたや始めから全身全霊、一切を注がれて向われる阿弥陀仏なのに、
それを疑ってかかって、直面しようともしない私なのですね。慚愧ここに極まれり、です。

南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏



もかな 2013/12/03 07:51
「自分のこととして聞く」という言葉を使ったのは、私ですね・・・はい。

「自分のこととして聞く」とは、どういうことかと言うと・・・

阿弥陀仏に本願を建てさせたのは、三世諸仏の悲願にもれた「この私なのだ」と聞く・・・ということです。

阿弥陀仏に五劫の思惟をさせたのは、自分の力では六道を出離できない「この私なのだ」と聞く・・・ということです。

阿弥陀仏に兆載永劫の修行をさせたのは、自分では仏になる種蒔きなど一つもできない「この私なのだ」と聞く・・・ということです。


阿弥陀仏は、AZさんの為に「本願」を建てられたのです。

AZさんが、そう思えても思えなくても・・・「真実」は「真実」なのです。

AZさんの「思える」「思えない」という気持ちは、全く関係無いのですよ・・・



たかぼー 2013/12/03 10:49
私を仏にするというのはとても驚くことで壮大すぎてどこか遠いところの話としか聞けない。自分のこととして聞くということがわからなくなりました。

ここに真宗の信は難信であるといわれるゆえんがあります。如来の願いは、私がどのように思おうとも、また、どのように考えようとも、必ずこの私を浄土に連れて還ると願っており、如来はその願いを他ならぬ「この私」にかけています。この如来の願いに気づき、その願いを聞き受けるということを、「自分の事として聞く」というのです。この「如来の願い」を聞くということは、故郷の母がいつも私のことを気遣っているその母心に気づくようなものです。私はその母心に気づいて何かをするわけではないけれども、気づいたときは、ただ母心を有り難く思う、ということに似ています。母心は私の思いとは関係なく私に向けられています。そのように私の思いとは関係なく一方的に如来に願われ、呼びかけられ、浄土に招かれているのが「この私」です。この如来の告白に気づきその願いを聞き受けてあげるのを「自分の事として聞く」というのです。



AZ 2013/12/04 10:35
いろいろ教えてくださり、ありがとうございます。
難しいというのが正直な思いですが、私ひとりのため←ここ驚きです。信じることができない私一人のために、一方的に願いがかけられている、何ということだろう。私一人を見据える如来(想像してみました)、なぜだ、それはみなさんのコメントに書かれてあるのが私だから。如来の願いは教えてもらって知ることができましたが、これは気づくとは違うと思っています。如来の働きで今の私があるなら、気づくのも自分の力でなく如来の働きですか?すみません、混乱しています。



たかぼー 2013/12/04 12:05
如来の願心(のまこと)に気づくというのは、自分の智慧や能力や行や努力などおおよそ自分の側の力によって気づき得るものではありません。如来からの一方的な願いが真実であるが故にです。自分の虚仮不実な心では、決して如来の願心を知ることはできないのです。



2013/12/04 15:02
そんなら辞めておきますわ、ということになっちゃいますが。

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20131202/1385975242#c1385979039