安心問答−浄土真宗の信心について−

浄土真宗の信心についての問答

御文章「五重の義」の光明とは?(摂取の意味で、調熟ではありません)

五重の義について書いていましたが、あさ川進さんのブログに関連したエントリーがあったので、こちらでも書きます。


蓮如上人の御文章にある「五重の義」について、光明は「調熟の光明」ではありません。蓮如上人の五重の義にある「光明」は、摂取の光明だからです。

御文章における「光明」について

まず、光明の意味について浄土真宗辞典より紹介します。

こうみょう 光明
仏・菩薩の身心にそなわる光のこと。迷いの闇を破し、真理をあらわす仏・菩薩の智慧を象徴するもの。(略)なお、浄土真宗では阿弥陀仏の光明のはたらきを、調熟(未熟の機を照育する)と摂取(念仏の衆生を摂め取って捨てない)との二側面から論じている。
(浄土真宗辞典より)


御文章に出てくる光明はほとんど「摂取の光明」について言われています。
以下に、そのうちの2つを紹介します。

一心にもつぱら弥陀に帰命せば、如来は光明をもつてその身を摂取して捨てたまふべからず、これすなはちわれらが一念の信心決定したるすがたなり。
(御文章1帖目13通_三経安心)

http://goo.gl/KEWK4

ここでは、弥陀に帰命した信心の上での摂取の光明としていわれています。

またわろき自力なんどいふひがおもひをもなげすてて、弥陀を一心一向に信楽してふたごころのなき人を、弥陀はかならず遍照の光明をもつて、その人を摂取して捨てたまはざるものなり。(御文章2帖目2通_すべて承引)

http://goo.gl/k0KeAP

こちらも「自力を捨てて」「弥陀を一心一向に信楽して」「ふたごころなき人」を「摂取して捨てたまはざる」光明ですから、摂取の光明としていわれています。

上記以外にも複数ありますが、御文章の上で「光明」と言えばほとんどが摂取の光明です。


そこで、次の御文章は調熟の意味ではないかと尋ねられた方があったので続けて書きます。

しかるにこの光明の縁にもよほされて、宿善の機ありて他力の信心といふことをばいますでにえたり。これしかしながら弥陀如来の御方よりさづけましましたる信心とはやがてあらはにしられたり。かるがゆゑに、行者のおこすところの信心にあらず、弥陀如来他力の大信心といふことは、いまこそあきらかにしられたり。これによりて、かたじけなくもひとたび他力の信心をえたらん人は、みな弥陀如来の御恩のありがたきほどをよくよくおもひはかりて、仏恩報謝のためには、つねに称名念仏を申したてまつるべきものなり。(御文章2帖目13通_御袖)

http://goo.gl/V2TjB3

この御文章では、五重の義でいわれているもののなかの「宿善」「光明」「信心」「称名」と4つが出されています。


それぞれの言葉に使われている言葉に注目すると「宿善」は「機」、「光明」は「縁」、「信心」に「えたり」、「称名」は「他力の信心をえたらん人」とあります。ここに使われているそれぞれの言葉から、蓮如上人が五重の義で五つのものはどのような意味で、またどのような関係として使われているのかがわかります。


そこで、この御文章2帖目13通では、光明が宿善の前に出されています。それだけを見ると、この光明は「調熟」の意味で使われているのではないかと考えることもできます。反対に、この光明が「摂取」の意味であるならば信心の後に出ていなければなりません。先に書きましたが、御文章のほとんどは光明の意味を「摂取」として使われています。では、なぜここでは光明を、信心の前に出されているのでしょうか?


蓮如上人がこのように書かれたのは、善導大師の往生礼讃、またそれを引いて書かれた親鸞聖人の両重因縁(教行信証行巻)によるものと思われるからです。

まことに知んぬ、徳号の慈父ましまさずは能生の因闕けなん。光明の悲母ましまさずは所生の縁乖きなん。能所の因縁和合すべしといへども、信心の業識にあらずは光明土に到ることなし。真実信の業識、これすなはち内因とす。光明名の父母、これすなはち外縁とす。内外の因縁和合して報土の真身を得証す。ゆゑに宗師(善導)は、「光明名号をもつて十方を摂化したまふ、ただ信心をして求念せしむ」(礼讃 六五九)とのたまへり。 (教行信証行巻より)

http://goo.gl/qVzBKK

この両重因縁では、最初に徳号(名号)の慈父と光明の悲母を出しておられます。次に、真実信(信心)を内因として、光明と名(号)の父母を外縁とするから報土往生し仏のさとりをひらくことができるのだとあります。


ここでは、信心の前に光明という言葉が使われています。この光明は「調熟」ではなくて「摂取」の意味で使われているものです。

より分かりやすく書かれているのが、同じことを愚禿鈔では別の言葉で書かれいるところです。

真実浄信心は、[内因なり。] 摂取不捨は、[外縁なり。] (愚禿鈔_上)

http://goo.gl/cZtcr9

ここでは真実浄信心を内因とし「摂取不捨」を外縁といわれています。どうして私が信心を獲るのかというのか、阿弥陀仏はどのように働いて私を救ってくださるのかということで言えば、「摂取」によって救われるのだということです。

浄土和讃に「摂取してすてざれば 阿弥陀となづけたてまつる」といわれていますが、この摂取について「摂はものの逃ぐるを追はへ取るなり」と親鸞聖人は左訓されています。逃げるものは追いかけてでも決して逃がさず救ってくださるお働きであり、そのお働きによって私が救われる身になることができるのです。


書いていて長くなりましたが、以上のことにより五重の義の「光明」は「調熟」の意味ではなく、「摂取」の意味だということになります。

もし、この五重の義でいう「光明」を「調熟」であると主張する人があれば、どうやって阿弥陀仏は私を助けて下さると考えているのでしょうか?本願力回向の働きがなければ、自力をわずかでも足して救われるということになってしまいます。あるいは、なぜか分からないけれども助かるということになれば、無帰命安心となり、蓮如上人が五重の義を書かれたことも意味のないことになってしまいます。


善を積んですくわれるという法ではありません。阿弥陀仏の本願力回向のお働きによって救われます。だから、誰でもただ今救われます。