最近読んだ本より紹介します。
- 作者: 鈴木大拙
- 出版社/メーカー: 岩波書店
- 発売日: 1972/10/16
- メディア: 文庫
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「なむ仏はさいち(才市)が仏でさいちなり。
さいちがさとりを開くなむぶつ。
これをもろ(貰う)がたがなむあみだぶつ。」(大乗相応の地、244ページ)
才市が仏で、仏が才市であるところに「なむあみだぶつ」がある。(日本的霊性:P217)
南無阿弥陀仏を遠くに眺めて、南無阿弥陀仏が私を救って下さるという考えはどうしても、「それにはどうしたらよいか」と考えてしまいます。
しかし、そもそも阿弥陀仏の本願からいえば、
阿弥陀仏の、むかし法蔵比丘たりしとき、「衆生仏に成らずはわれも正覚ならじ」と誓ひましますとき、その正覚すでに成じたまひしすがたこそ、いまの南無阿弥陀仏なりとこころうべし。(御文章4帖目)
ということです。
衆生(私)が仏にならなかったら、私(法蔵菩薩)も仏にならないという誓いが阿弥陀仏の本願です。
南無阿弥陀仏は、私を仏にするという本願成就の名号です。その本願は成就して、すでに南無阿弥陀仏となっておられます。私を仏にしなれけば、法蔵菩薩も仏にならないという本願です。
そういう意味で、南無阿弥陀仏は私であり、南無阿弥陀仏が私です。
一 弥陀をたのめば南無阿弥陀仏の主に成るなり。南無阿弥陀仏の主に成るといふは、信心をうることなりと[云々]。また、当流の真実の宝といふは南無阿弥陀仏、これ一念の信心なりと[云々]。(御一代記聞書237)
南無阿弥陀仏の主に成るというのは、南無阿弥陀仏が私であり、私が南無阿弥陀仏ということです。
南無阿弥陀仏が私を救って下さると、こちらで待ち受けているのは間違いです。
南無阿弥陀仏があるということは、私を救う働きがすでに成就しているということです。その南無阿弥陀仏をただ今聞いて救われちることです。阿弥陀仏の本願は、私の往生と法蔵菩薩の正覚を同時に誓われています。
私一人のために誓われた本願ですから、南無阿弥陀仏が私であり、私が南無阿弥陀仏です。