安心問答−浄土真宗の信心について−

浄土真宗の信心についての問答

顕正新聞(親鸞会機関誌)論説より「弥陀に救われた人は、例外なく曠劫より常没流転してきた過去も出離の縁あることなき未来もハッキリ知らされる」について

浄土真宗親鸞会(富山県射水市・高森顕徹会長)の機関誌・顕正新聞の論説の内容をおすぎさんよりコメントで教えて頂きました。有り難うございました。

おすぎ 2012/03/07 22:02
『親鸞会では‘味わい’という言葉を 聞いたことがありません。
又、聖人のお言葉は 救われた 全ての人が 体験あるいは感じるものとして会長が教えています。
新聞では

●「ああ、弘誓の強縁は多生にも値いがたく、真実の淨信は億劫にも獲がたし」
弥陀に救われた絶対の幸福は、この世の百年や二百年求めて得られるちっぽけな幸せではなかった、と知らされるから「多生にもあえないことにあえた、億劫にも獲がたいことをえた」と言われているのである。人生の目的どころではない、多生永劫の目的を果たさせていただいた、美しい感激に満ちた告白であることが知らされる。
どうして親鸞聖人は、この世だけでない、多生や億劫のことをこのようにハッキリ断言できたのだろうか。それは親鸞聖人が体得され、九十年の生涯教え続けられた信心が分からなければ 毛頭知りえないことである。
親鸞聖人が明らかにされた他力の信心は、二種深信に外ならない。
真実の信心とは二種深信のことであり、二種深信が立っていなければ阿弥陀仏に救われた人とは絶対にいわれない。
・・・・弥陀に救われた人は、例外なく曠劫より常没流転してきた過去も出離の縁あることなき未来もハッキリ知らされるから、弥陀の救いは多生永劫の目的であったと信知させられるのである。

以上論説より抜粋。

会長自身は 何をどのようにハッキリ知らされたのでしょうかね。

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20120306/1331024616#c1331125375

何が知らされたのかは、高森会長と同じ「信心」にならないと分からないでしょうね。

親鸞会の機関誌顕正新聞の論説は、最近の高森会長の法話や座談会の内容をまとめたものと、その時の会の方針を書いたものが主です。このコメントで紹介された論説の内容も、2月19日のテレビ座談会の内容から論説の執筆者が書いたものと思われます。

さすがに非常にわかりやすく高森会長が話した内容をまとめてあります。
まとめると、以下のようになります。(「 」は論説本文より)

  1. 阿弥陀仏に救われると「人生の目的どころではない、多生永劫の目的を果たさせていただいた、美しい感激」がある。
  2. 「親鸞聖人は、この世だけでない、多生や億劫のことをこのようにハッキリ断言」された。
  3. それは「信心が分からなければ 毛頭知りえないことである。」
  4. 「弥陀に救われた人は、例外なく曠劫より常没流転してきた過去も出離の縁あることなき未来もハッキリ知らされるから、弥陀の救いは多生永劫の目的であったと信知させられる」

いづれも「?」という内容ですが、特に4番目の阿弥陀仏に救われた人は「例外なく曠劫より常没流転してきた過去も出離の縁あることなき未来もハッキリ知らされる」は、最近のエントリーにも書きましたが間違いです。この文章を読む限りは、「曠劫よりの過去」と「未来」がハッキリ知らされるそうですから、何か智慧が開けたような体験が、高森会長のいう「信心」だということがよく分かります。


また、そんなことは「信心がわからなければ毛頭知りえない」ということですから、信心の内容は、どう考えても智慧を極めた「さとり」が、親鸞会で言う信心です。

前のエントリーでの林遊さんのコメントより引用。

林遊 2012/03/07 08:15
(抜粋)
法然聖人は、『西方指南抄』浄土宗大意で、
聖道門の修行は。智慧をきわめて生死をはなれ。浄土門の修行は。愚痴にかへりて極楽にむまる
http://goo.gl/HYZSH
と、自覚(自らが覚る)道以外の転迷開悟のご法義を示されておられますね。

自分ではなにも「さとり」はなくても、浄土に生まれさせて頂けるのが阿弥陀仏の救いです。高森会長が、ことさら「自覚」を強調するのは、「さとり」を信心だと誤解している証拠です。

二種深信のお言葉は、信心のないようを言われたものなので、内容から言えば「本願を聞いて疑い無い」です。

〈二者深心〉。深心といふは、すなはちこれ深信の心なり。また二種あり。 一つには、決定して深く、自身は現にこれ罪悪生死の凡夫、曠劫よりこのかたつねに没し、つねに流転して、出離の縁あることなしと信ず。二つには、決定して深く、かの阿弥陀仏の四十八願は衆生を摂受して、疑なく慮りなくかの願力に乗じて、さだめて往生を得と信ず。(教行信証信巻・浄土真宗聖典(註釈版)P218)

http://goo.gl/DqVem

ここで「曠劫よりこのかたつねに没し、つねに流転して、出離の縁あることなし」と言われているのも「阿弥陀仏の四十八願は衆生を摂受して、疑なく慮りなくかの願力に乗じて、さだめて往生を得」というのも、阿弥陀仏の本願です。

「曠劫よりこのかた」「出離の縁あることなし」の私であり、そんなものを「さだめて往生を得」る身に救って下さる本願だと呼びかけられるのが南無阿弥陀仏です。その本願を聞いて疑い無いのを信心と言いますが、「聞いて疑いない」から「ハッキリその内容を自覚する」とはいいません。


たとえて言いますと、親が子供に「お前が生まれたばかりのころは、こんな子供だった」と話し、それを聞いた子供にその当時の記憶が鮮明によみがえるということはありません。しかし、記憶はよみがえらなくても、親の言うことにあれこれいう心はありません。聞いて疑い無いというのは、そのように「特別な自覚」を伴わなくても、別の言い方をすると私の中に何か証拠を出さなくて、本願の仰せをそのまま聞いているだけのことです。

「曠劫より常没流転してきた過去も出離の縁あることなき未来もハッキリ知らされ」なければ、本願がまことではないというのは、本願がまことの証拠を自己の「ハッキリ」に求めているに過ぎません。そんな「自己のハッキリ体験」など、何の証拠になりません。そんなものが有る前から、阿弥陀仏は南無阿弥陀仏となって私に呼びかけられているからです。


その南無阿弥陀仏を聞いて疑い無い、名号をこころうるのが信心だと、安心決定鈔には以下のように書かれています。

第十八の願をこころうるといふは、名号をこころうるなり。名号をこころうるといふは、阿弥陀仏の衆生にかはりて願行を成就して、凡夫の往生、機にさきだちて成就せしきざみ、十方衆生の往生を正覚の体とせしことを領解するなり。
かるがゆゑに念仏の行者、名号をきかば、「あは、はやわが往生は成就しにけり、十方衆生、往生成就せずは正覚取らじと誓ひたまひし法蔵菩薩の正覚の果名なるがゆゑに」とおもふべし。(安心決定鈔・浄土真宗聖典(註釈版)P1386)

http://goo.gl/jvnSt

ここでは、「あは、はやわが往生は成就しにけり、十方衆生、往生成就せずは正覚取らじと誓ひたまひし法蔵菩薩の正覚の果名なるがゆゑに」と書かれています。
「はやわが往生は成就しにけり」というのは、「未来がハッキリした」からではありません。「十方衆生、往生成就せずは正覚取らじと誓ひたまひし法蔵菩薩の正覚の果名」が、南無阿弥陀仏であると聞いて疑い無いからです。

高森会長は「救われたなら自覚があるはず」とか「自覚がないのは真実信心ではない」と言います。それを繰り返し聞かされている会員の殆どは同じように思っています。そうなると「救われた証拠=自覚=信心」という図式を頭の中に作り上げてしまいます。


このように「救われた証拠」を「ハッキリした体験(自覚)」に求める一方、会員に対しては「ハッキリした体験を語るのは異安心」と言っているのが高森会長です。そのため、親鸞会では「味わい」という言葉は確かに聞きません。会長自身が味わいがないからでしょう。


しかし、「自己のハッキリ体験」(自覚)が、救われた証拠でも信心でもありません。南無阿弥陀仏が成就し、私に常に働いて下さっているのが証拠です。その南無阿弥陀仏を聞いて疑い無いのが信心です。それを証拠と思わずに、「ハッキリ体験でなければ認められない」というのは間違いです。